ナボコフ『賜物』(39) | 詩はどこにあるか

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 (長い中断のあとなので、前に書いたことと重複したことを書くことになるかもしれない。でも、書いていくしかない。)

 ナボコフを読むと、ナボコフがことばを追いかけているのか、ことばがナボコフを追いかけてつかまえてしまうのかわからなくなるときがある。それは何も華麗な文章を指していうのではない。たとえば、

フョードル・コンスタンチノヴィは上着も着ないで、素足にズックの短靴をつっかけて、日焼けした長い指で本を持ち、深い青色のベンチに腰をおろして一日の大半をすごした。
                                 (95ページ)

 この文章は、短くすれば「フョードル・コンスタンチノヴィせ、一日の大半を、ベンチで本を読んですごした。」ということになるだろう。
 「上着も着ないで」など、どうでもいい。「素足にズックの短靴」というのは、「素足にズックの靴」で十分である。そこに「短」ということばが入り込む。「深い青色のベンチ」の「深い青色」も同じ。ナボコフが事実をより具体的に書いている、というより、まるでことばがナボコフの本に降ってきた感じ。ナボコフは、それを書き留める。書き留めないことには先に進めないから--という感じすらする。
 しかし、そうではないのだ。
 その「証拠」を書こう。そのことを「証明」してみよう。
 先に書いたが、引用した一文は「主人公は一日の大半をベンチで本を読んですごした。」になる。誰が(主人公が)、いつ(一日の大半)、どこで(ベンチで)、何をした(本を読んだ)、をつたえるのが文章だとすれば、ナボコフの文章はそこまで短くできる。
 そして私の要約(?)とナボコフの文章を比較すると。
 ナボコフは本を「読んだ」とは書いていない。(訳が正確だと仮定しての話であるが)。「読んだ」のかわりに、本を「持ち」と書いている。
 「読む」という、主人公の動作をナボコフは省略している。もし、ことばがどこからともなくナボコフに降り注ぐものならば、ナボコフは「読んだ」と書いてしまうだろう。ナボコフは「読んだ」を避けているのである。肝心な「行動」を描写することを、その周辺を丁寧にことばで歩き回るのだ。
 ナボコフはことばに追いかけられるふりをして、実際には、ことばをふるいにかけている。こんなに長い小説を書きながら、実際は、ことばを削りこんでいるのだ。そして、ナボコフの小説が長いのは、このことばの「削り込み」を文章そのものの内部に抱え込んでいるからなのである。


賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社