アカデミー賞の助演賞を獲得したので、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオが注目されているが(もちろん 2人の演技はすばらしい。特に私はメリッサ・レオに感激してしまった)、マーク・ウォールバーグがとてもいい。クリスチャン・ベールとメリッサ・レオのエキセントリックな演技をしっかりと受け止めて、映画の骨格を支えている。
「ブギーナイツ」のときから主役なのに、他の役者を押し退けて自己主張するというより、他の役者の演技を受け止めて映画の骨格をつくりあげるような渋い役者だったが、なんといえばいいのか、風格のようなものがある。オーラではなく、他人のオーラを受け止めて、他人を輝かせる。そして、知らないうちに、全体を支えている。
マーク・ウォールバーグがいるから、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオは、自由に逸脱できる。映画のストーリーそのままに、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオは、映画からはみだしてゆく。スクリーンからはみだしてゆく。スクリーンから飛び出て、観客席の、その目の前にまでやってくる。
長男を溺愛する母親、母親に溺愛され、まわりが見えなくなる長男。彼らにはそれぞれ「家族」があるのだけれど、それは付録という感じだ。ふたりだけで「愛」が完結している。その完結した「愛」のなかに他の家族を引きこむことが、ふたりにとっては「愛」そのものなのだ。
ここで自己を確立するのは難しいなあ。ほかの姉たちのように、母親べったりになって、「母」と自分の見分けをなくしてしまうしかない。この「愛」のなかで、マーク・ウォールバーグはもがくわけだけれど、彼にとってむずかしいのは、母親よりも(? たぶん)、兄の方が重要であるということだ。兄をとおして母と向き合う。ボクサーとしての先輩である兄をとおして、母と向き合う。また、ボクシングをとおして母と向き合う。「家族」にとって「兄=ボクシング(ボクサー)」なので、どうしても、そんな構図になる。どうしても、そこにひとつ「クッション」がある。直接、母とは触れあえないのだ。
マーク・ウォールバーグはリングで相手のボクサーと戦っているだけではなく、ボクシングという「もの」そのものと戦っている。向き合っている。この感じを、「敵」ではなく、そこにある「ボクシング」という「もの」と格闘している感じを、マーク・ウォールバーグは肉体で具体化する。一方で、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオの演技と向き合いながら、それを越えてというか、それを統一するために「ボクシング」という「もの」と戦う。
それもボクシングシーンで、それを具現化するのだけではない。ボクシングシーンもいいけれど、ボクシングをしていないシーンがいい。いつも「ボクシング」の影を引きずっているのだ。クリスチャン・ベールのボクシングがあくまでリングの上での戦いを現実のなかに引きずっている(これが、過去の栄光への未練という「こころ」としてあらわれてもいるのだが)のに対し、マーク・ウォールバーグは「試合(リングの上での肉体)」を現実に引きこむのではない。むしろ、リングの上の肉体を隠す。隠すことで、その底から静かにせり上がってくる「ボクシング」と戦う。
マーク・ウォールバーグは「ボクシング」を乗り越えないことには「家族」に出会えないということを知っている。そういう哀しみを「肉体」にまとわせている。哀しみを隠している。まるで、その「肉体」をトレーナーや何かで押し隠すかのように、哀しみを「肉体」で、その静かな動きで、押し隠している。
うーん。
演技を通り越している。悲しいことにというべきなのかどうなのかわからないけれど、こういう演技は目を引きにくいね。でも、こういう演技にこそ、賞をやりたいねえ。ヒーローなのに、自分がヒーローであるのは兄と母のおかげとでもいうように、そっとわきに引いて、母と長男の絆を、さらには家族の絆を円満にし、その見えない要になっていく--あ、この映画は実話だというが、たぶん、その主人公の「人生」のなかにマーク・ウォールバーグはしっかり食い込んで肉体を動かしているんだねえ。
(2011年03月30日、福岡・中州大洋1)
3月のお薦め--今月は6本。
1 白いリボン(見逃したら一生後悔する)
2 再会の食卓
3 ザ・ファイター
4 アレクサンドリア
5 冬の小鳥
6 トゥルー・グリッド
(「白いリボン」「冬の小鳥」は2010年公開作品。
いまは、一般上映していないかもしれない。)
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