秋も去ろうとしている
この庭の隕石のさびに枯れ果てた
羊歯の中を失われた
土の記憶が沈んでいく
あのやせこけた裸の音を
牧神は唇のとがりを
船の存在に向けて吹いている
この7行を「散文化」しようとすると、どうしていいかわからなくなる。1行目はわかる。季節のことを書いている。「秋」が主語。「去る」が述語である。ところが「この庭の」以後が難しい。次に出てくる主語は? 4行目の「土の記憶(が)」が主語? 述語は「沈んでいく」? では、それまでのことばは? 修飾節になるのかもしれない。後ろから逆に読むことになるが「失われた/土(の記憶)」「枯れ果てた/羊歯」という具合につづいているのかもしれない。
そうだとすると。
へたくそな文だねえ。「学校教科書」の作文なら、もっと整理して、わかりやすく、と指摘されるかもしれない。
でも。
この「へたくそ」な感じが、詩だなあ。
こんなふうにぎくしゃくとは書けないなあ。私のことばは、こんな複雑な「構文」を動くことができない。
ということは。
私は、いま書いたような「複雑な構文」にしたがって読んでいるわけではない。
この庭には隕石があって、その隕石のさびのせい(?)で羊歯が枯れ果てているのだけれど、その枯れ果てた羊歯のなか(茎のなか? 葉のなか? 羊歯という存在のなか?)を、失われた土(隕石によって「さび」た?土、疎外された?土)が沈んでいく。羊歯は枯れ果てながら、土のことを思っている--というふうに読んでいるわけではない。
私はただ「音」を読んでいる。「音」はことばであるから、当然「意味」を含んでいるが、その「意味」を優先して読んでいるのではなく、ただ「音」を読んでいる。そうすると、遅れて「意味」がやってくる。
「音」と「意味」とのあいだに「ずれ」がある。
その「ずれ」は改行によって増幅される。「枯れ果てた/羊歯」「失われた/土(の記憶)」とひと呼吸置いて(改行を挟んで)音がつながるとき、そのつながりの奥から「意味」が駆け足でやってくる。
それを振り払うようにして、ことばの「音」はさらに先に進む。
「あのやせこけた裸の音を」--あ、これは「土の記憶が沈んでいく」音なんだなあ。と、思う間もなく、「牧神は」と主語が変わる。
西脇のことばは「意味」を拒絶している。
ことばはどうしても「意味」を持ってしまうものだから(読者は、どうしたってことばに「意味」を読みとろうとするのもだから)、どんなに飛躍したことばを書いても、そこに「意味」が出てきてしまう。そして「重く」なる。
この「重さ」を拒みながら、西脇はことばをただ「音」に帰そうとしている。
実際に、西脇のことばは「軽い」。「音」が軽快で気持ちがいい。
たとえば、
この庭の隕石のさびに枯れ果てた
行頭の「この」は、何のことかわからない。つまり「意味」がない。「意味」をもたない。単なる「音」である。でも、とても重要である。「庭の隕石のさびに枯れ果てた」では「庭」の「意味」が重くなる。
「この庭」と言ってしまうことで、「庭」の「意味」を軽くする。
「この」というのは、すでにその存在が意識されていることを示している。それは、まあ、西脇にはわかっている「この」庭であるということを意味する。そして、「この」という音を持ってくることによって、読者に「すでにその存在が意識されている」ということを「共有」させる。読者を、西脇のことばの運動の共犯者にしてしまう。そうすることで、ことばを動かすということを、西脇ひとりの仕事ではなく、読者の仕事にもしてしまう。
なんだか書いていることが矛盾してしまうようだがてんてん。
「この」は、だから、とても「意味」がある、ということにもなる。「この庭」の「庭」意味があるのではなく「この」に重要なものがある。意識の動きのポイントがある。
「文章」としては「意味」を持たない。けれども、ことばの運動としては「意味」を持っている--それが、「この」なのである。「この」という「音」なのである。
書かれているのは「もの」のようであって、「もの」ではなく、「意識の運動」なのである。「意識の運動」というのは、まあ、適当なものである。適当というのは、かならずしも「学校教科書」の文法どおりには動かないということである。思いついたもののなかを、かってに動き回る。そして、「意味」は、それを繋ぎ止めようとして必死になって追いかけてくる。
西脇は、そういう追いかけっこを「音」を優先させることで動かしている。追いかけっこのエネルギーは「音」のなかにある。その「音」を気持ちよいと感じ、それを選びとる「耳」や「喉」といった「肉体」のなかにある。
西脇の詩を読むと、私はいつも「耳」がうれしくなる。「喉」がうれしくなる。「肉体」が共振する。
![]() | ペイタリアン西脇順三郎 |
伊藤 勲 | |
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