この寂しいわさびの秋の夜に
ランプの夜明けがある
このコップに夕陽のあの
野ばらの実の影が残る
人間が残ることがあるだろうか
人間の声が残るだけだ
ああ きぬたの音がする
おお ポポイ ポポイ
「人間の音」ではなく「人間の声」。どこが違うのだろうか。
これから書くことは私の印象である。
「音」と「声」を比べると、音の方が原始的(根源的)である。音をととのえ、そこに「意味」をもたせたものが声である。声は「ことば」でもある。実際、ここに書かれた「声」を「ことば」と置き換えると、「意味」が生まれてくる。
時間が流れ、すべてが移りゆく。けれど自然や宇宙の生成は変化をしながら時間を越えて「残る」。人間は死んでゆく。残らない。ひとりひとりは残らないが、そのかわりに「ことば」が残り、ことばが「永遠」になる。
でも、そんな「ことば」というのは、何か味気ない。「真理」というのは、味気ない。人間がいなくても存在するのでは、どうにもつまらない。
何か、真理とは切り離されて、永遠とは切り離されて、「いま」「ここ」と深く切り結ぶ何かがないとつまらない。そういうときの「切りむすび」のきっかけは、私の考えでは「間違い」である。「ずれ」である。人間は真理そのものとは一体になれない。何かしら「自己」がにじみでてしまう。そのにじみでたものが「間違い」「ずれ」。それがあるから、「真理」も見える。
そして、その「間違い」や「ずれ」を含んだものが「声」なのだと思う。「肉体」の刻印が「声」なのだ。それは「意味」から逸脱した何かである。だから西脇は「ことば」とは書かなかったのだ。
村の花嫁の酒盛りに行つた
ムサシノの婦人は帰つて来る
この夕暮れ近く
あの疲れた人も帰つて来る
「夏ならまだ日が照つているのだが」
と鼻の高い青ざめた男が言つている
カシの木の皮も青ざめている
これ連に出てくる「夏ならまだ日が照つているのだが」が、「声」である。そのことばに「意味」はあるが、そんな「意味」はあってもなくてもいい。男が帰って来たひとに声をかける。その行為、そのなかにこそ、ことばにならない「意味」がある。
そして、このことばにならなかった「声」が「音」なのだ。
西脇は、男の「ことば」を記憶していて、それを書いたのではない。また、男の「声」を記憶していて、それを書いたのではない。西脇は、男の「ことば←声」を聞いて、そこに「←音」を感じたから、ここに書き留めているのである。
「音」は「→声」になり「→ことば」になることで、見えにくくなる。聞こえにくくなる。だから、この行に「音」が書かれていると言っても、それは私の妄言(私の「誤読」)にすぎなくなるのだが、私が感じるのは「意味」ではなく、「音」なのである。
「音」が聞こえるから、おもしろい。
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