東北巨大地震について詩人は何を語れるか。
平田俊子が「ゆれる」という詩を書いている。
ゆれるね
きょうもゆれてるね
地球が荒ぶるゆりかこだったとは
知らなかった代
おとなも子どもも眠らせない
意地悪なゆりかごだったとは
三月なんだよ 春なんだよ
春眠あかつきを覚えない
優しい季節のはずなのに
今年の春は
ひとをゆさぶり
眠らせまいとする
地球よ お前は
いつの日も
愉快にまわるだけでいい
ゆれるのは
風に吹かれる花や
庭の洗濯物にまかせて
お前はいつも
無邪気にまわれ
地球をゆらすものは
泡となって消えろ
ゆれるな
れるな
るな
な
な
な!
誰も経験をしたことがないものに出合ったとき、ことばは動かない。ひとは自在にことばを動かして思いを語っているようで、自在ではない。自分の知っていることばしか使えない。わからないことが起きた時は、ことばが動き回って、どんなことばになることができるか探しまわっている。
2連目の「春眠あかつきを覚えない」はもちろん「春眠あかつきを覚えず」という詩から来ているのだが、「意味」はまったく違う。まったく違う「意味」を語るにも、知っていることばを使うしかない――いまは、それしかできない。いや、この詩の中では、漢詩にあるとおりの「春眠あかつきを覚えない/優しい季節」という「意味」につかわれているのだが、そこには「あかつきを覚えない」、つらい地震後の思いが流れ込み、「意味」をゆさぶる。知っていることばと、知らないことがぶつかりあって、平田をゆさぶる。それこそ、平田のことば自身が「大地震」を起こすのだが、悲しいねえ、意識は大揺れ、肉体も大揺れ、感情の大揺れなのに、ことばがその大揺れの通りには大揺れにならない。揺らせるものなら揺らして、大地震と向き合いたい、大地震をはねのけたい。けれど、できない。
それが、再終連。
ゆれるな
そう言いたい。でも、それではことばが不十分。向き合えない。で、ことばが壊れる。平田のことばが壊れる。それでも、言いたい。言わずにいられない。「ゆれるな」を超える、もっと、もっと、もっと、強いことばを。東北の地震は「ゆれる」を超えている――平田の知っている「ゆれる」を超えている。だから「ゆれるな」ではダメなんだ。
でも、それはどんなことば?
わからない。わからないまま、ことばは壊れ「な」だけになってしまう。「○○するな」の「○○」にあてはまることばを探したい、探して届けたい――その思いが残される。
ここに「現代」よりももっと厳しい「現実・現在」がある。
平田のこの詩は「現在詩」なのである。
*
松浦寿輝は「毎日新聞」2011年3月28日夕刊の「詩の波 詩の岸辺」という時評のなかで、巨大地震にふれて書いている。
亡くなられた方々のことを考えると心が痛む。収束の見通しも立たない原発事故の行く末は恐ろしい。しかし、悲嘆も恐怖も、実はまだ心の底に固くこごったままで、どんな言葉を口にしても嘘(うそ)臭(くさ)くしか響かない。血なまぐさい修羅場と化した波打ち際の光景からどんな詩が生まれるのか、生まれうるのか、わたしにはまだ見当もつかない。
しかし、それでも詩は持続する。
そして「田村隆一全集」に触れている。その指摘は、松浦らしい詩的だが、その指摘の前に置かれた「それでも詩は持続する」に、松浦の「願い」がある。それは「持続したい」と言い直せば、松浦の決意になる。
そうなのだ、どんなときでも、詩人は書かなければならない。
平田の作品のように、ことばがみつからず「な/な/な!」であっても。
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平田 俊子 | |
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