冒頭のシーンがとても美しい。小学校の教室。ドア。風(?)のためにゆれている。ゆれるたびに、柱にコツンコツンとぶつかる。その小さな動き。その映像が美しい。スクリーンを分割するドアと柱の左右のバランスが美しいのだ。そして、その分割された画面の中の、古びたドアのペンキの色。ノブ(取っ手、ということばの方がぴったりくるかなあ)の手触り。そこにある「時間」そのものが美しい。--そして、この美しいというのはリアリティーがあるということと同じ意味である。
アッバス・キアロスタミというのはリアリティーがあるということであり、リアリティーがあるということは、そこに「蓄積された時間」がある、つまり「暮らし」があるということでもある。
庭に洗濯物を干す。そのときのたとえばシャツの掛け方、そしてその空間にシャツが占めることによって起きる空間のバランスの変化--そういうことは繰り返されることによってある「安定」を形作る。それがそのままスクリーンに定着する。それが美しい。
一階と二階のバランス、階段の角度、その板の古びた感じ、何もかもが絵になる。何もかもが「時間」をもって、そこで生きている。少年が友だちの家を探しに行くその村(?)の石の階段、露地、古びた石造りの感じの肌触り。そこに漂う空気や、家の仕事を手伝う子どもの動き、ぶらぶら歩いている犬さえ、「蓄積された時間」をかかえていて、とても美しい。主人公の少年の祖父をはじめ、何人も登場する老人たちも、「蓄積された時間」そのものである。「哲学」をもっている。その「哲学」に共鳴するかどうかは別の問題だが、きちんと「哲学」にいたるまで「ことば」のなかに「蓄積された時間」をもっているのが美しい。「蓄積された時間」が表情となって、自然ににじみでるのである。
この映画はノートを友だちのうちにとどけに行く少年を追いかけるようにして動いているが、それとは別に語られる「ドア」の変化もおもしろい。最初に教室のドアの美しさを書いたが、少年をひっかきまわすのは「ドア職人」である。ドア職人はロバに乗った中年と、老人と二人出てくる。二人が出てくることで「ドア」そのものにも「時間」が生まれる。いまの職人(中年の職人)のつくるドア、老人がつくるドアの違い。中年の方は「鉄」の方に力を入れている。老人はあいかわらず木の手作りのドア(窓、といった方がいいかもしれない)にこだわっている。鉄の方は堅く閉ざされ内部が見えない。木の方は飾りの透かしから明かりが洩れる。何も見えないものと、何かが見えるもの--見えるものの方が、美しい、という「時間」がそこにある。
主人公の少年は、見えるものと見えないもののあいだを行ったり来たりする。ノートの持ち主の少年のうちはどこ? わかるっていることがある(見えているものがある)一方、わからないこと(みえないこと)がある。そのために、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするのだ。そうすることで、少年は自分のなかにある「時間」を発見する。自分がその「時間」をつかって何ができるか--それを発見する。
とてもおもしろいねえ。
そして、その「発見」の瞬間--というか、その「発見」を導くように、窓が開く(ドアが開く)。これもいいなあ。
さらに、さらに。
最後の最後。宿題のノート。それを開くと、そこには、老人のドアつくり職人がくれた路傍の花が「押し花」のしおりになって挟まっている。その美しさ。「時間」を抱え込んで、その「時間」がそのまま色と形になっている。
アッバス・キアロスタミは、どんなものでは「映像」に変えてしまう。美しい映像にしてしまう監督である。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ08本目、天神東宝、03月25日)
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