誰も書かなかった西脇順三郎(200 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。

もうわからなくなつた
あのせせらぎのせせらぎの
そのせせらぎの
あの絃琴のせせらぎ!
ああまたわからなくなつた
オオ パ パイ
ああ あのすべては
すべてでなくなつた

 「もうわからなくなつた」。この1行がおもしろい。何かを感じる。感じるけれど、ことばにするとわからなくなる。わからなくなったと書くことで、「音」を隠してしまう「ことば」を取り払おうとしているように私には感じられる。
 「音」はことばになる。けれど「ことば」になってしまうと、「音」のほんとうの何か--「音」が「音」として生まれてくるときの動きが見えなくなる。「音」そのものが、どこか遠くへいってしまう。
 遠くへいってしまうことで「すべて」である「音」は「すべて」ではなくなる。単なることばになる。
 
ああ すべては流れている
またすべては流れている
ああ また生垣の後に
女の音がする
人間の苦しみの音がする
クルベの女が夢をみている
ああ また音がする
それはすべての音だ

これは確かに
すべての音だ
私は私でないものに
私を発見する音だ

 「音」、その最高のものを、「私は私でないものに/私を発見する音だ」と西脇は定義している。
 「音」のなかには「私」以前があるのだ。「私」が生まれてくる「場」があるのだ。「音」を通って、「私」は生まれてくる。しかも、それは「私」ではないことによって「私」になる。「私を発見する」。
 色でも形でも線でもない。「音」なのだ。それも女の「音」なのだ。

 そして、この「音」は、まだ「音楽」にはなっていない。「音楽」になっていないことによって、「音楽」を超えている。それは「音」がことばになっていないことによってことばを超越しているのに似ている--と、独断で書いておく。
 その「理由」「根拠」をつかみ取りたいけれど、私には、それができない。直感として、そう思うだけである。そういう直感を呼び覚ましてくれたのが、西脇順三郎の詩なのである。だから、私は西脇の詩について、ああでもない、こうでもないと、わけのわからないことを書いているのである。

 あ、何かを書き間違えた気がする。

私は私でないものに
私を発見する音だ

 この2行の不思議さは、「音」を消してみるとわかる。

私は私でないものに
私を発見する

 こう書いてしまうと、それは詩の「哲学」になる。「詩学」になる。詩はいつでも私が私ではないものに私を発見すること。他者(もの)のなかに私を発見し、私が他者(もの)になってしまうことである。
 その過程を、西脇は「音」ということばであらわしている。「音」という余分なことばをつけくわえることで書こうとしている。この「余分」、書かずにはいられないことばのなかに西脇が存在するのだ。
 ひとには、どうしても書かなければ気が済まないことばがある。
 また、自分には密着しすぎていて書き忘れてしまうことばがある。
 詩は、そういうことばのなかにある。




西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会



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