誰も書かなかった西脇順三郎(196 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 『禮記』のつづき。「田園の憂鬱(哀歌)」の次の部分がとても好きだ。

もう春も秋もやつて来ない
でも地球には秋が来るとまた
路ばたにマンダラゲが咲く
法隆寺へいく路に春が来ると
ゲンゲ天人唐草(てんにんからくさ)スミレが咲く
ああ長江の宿も
熊野の海に吹く鯨のしおも
バルコンもコスモスもライターも
秋刀魚も「ツァラトゥストラ」も
すべて追憶は去つてしまつた

 秋、路ばたにマンダラゲが咲く、春、法隆寺へ行く路にゲンゲ、天人唐草、スミレが咲く。そのことがなぜ、詩、になるのか。そこには、いったい何が書かれているのか。秋の花、春の花の名前が語るのは何なのか--という問いは正しくない。正しくないというか、私の書きたいことからずれてしまう。私がこの部分がなぜ好きなのか。そこに「意味」を感じているからではない。その自然の花の美しさを感じているからではない。私はそこに「音」があること、その「音」が一種類ではないことに、喜びを感じるのだ。
 いろんな音が炸裂している。咲き競っている。
 そのなかでも、私がいちばん驚くのは「天人唐草(てんにんからくさ)」である。西脇はわざわざルビを振っている。そう「読ませたい」のだ。「意味」だけなら、ルビはひつようとはしないだろう。ゲンゲ・てんにんからくさ・スミレ。その音の響き具合を聞いてほしいと願っているのだ。ゲンゲとスミレに挟まれて「てんにんからくさ」は、とてもなめらかな響きで輝く。
 これが、もし「いぬふぐり」であったら、どうだろう。「いぬふぐり」は「天人唐草」の別称である。「意味」は同じである。でも、ゲンゲ・いぬふぐり・スミレ、では、音がまったく違ってしまう。
 さらに「ゲンゲ」ではなく「れんげ」「れんげ草(そう)」の場合も音が違ってくる。おもしろみが減ってしまう。        

 詩は「意味」のなかにあるのではないのだ。

 「熊野の海に吹く鯨のしおも」も、とてもおかしい。ごくふつうに「意味」をつたえるなら「熊野の海に(海で)、鯨の吹くしおも」だろう。(意味は少し違うが、熊野の海に、潮を吹く鯨も、という言い方もあるだろう。)「吹く鯨のしお」というのでは、「吹く」の主語を一瞬見失ってしまう。「鯨がしおを吹く」という基本的な「事実」が、どこかへ消えてしまう。そして、そこに音が残される。
 すべての追憶は去ってしまって、音が残される。「意味」を欠いた音が残される。そうしてみると、追憶とは「意味」かもしれないなあ。
 ほら。

 秋刀魚も「ツァラトゥストラ」も

 この1行で思い出すのは何? ふと、「作者」(筆者)を思い出さない?
 でも、我慢しよう。「作者」を思い出し、その名前を口にすれば、そこに「意味」が生まれる。西脇は、その「意味」を拒絶して、秋刀魚も「ツァラトゥストラ」もというときの肉体のなかに広がる音を楽しんでいるのだ。





西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会



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