誰も書かなかった西脇順三郎(195 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 『禮記』のつづき。「田楽」の最後の方にとてもおもしろい展開がある。

「まよ中におれが考えたことを
あの女にきかせるよりは死ん
だ方がましだ」
(そげなことを思いながら)

 西脇の詩には不自然な改行、ことばの「行わたり」が頻繁にみられるけれど、「死ん/だ方がましだ」は、とりわけかわっている。「死んだ/方がましだ」なら、まだ「死んだ」でいったん「意味」が完結し、それが次の行で破壊される(と、いうか、方向転換される)ので、強引な感じはしない。「死ん/だ方がましだ」は、どうみても強引である。
 でも、なぜ、強引に感じるんだろう。「意味」を追うからだろう。しかし、その「意味」とはなんだろう。「頭」で追いかける「意味」だ。
 「肉体」は、ほんとうはそんなふうにことばを追いかけないかもしれない。
 思わず「死」ということばを口にして、そこでいったん立ち止まる。勢いで「死ん」まで言ってしまうが、言いながら、いまのことばでよかったかな? 言っちゃいけないんじゃないかな? ふと、迷う。その迷いの瞬間を乗り越えて、急遽、ことばを別な方向に動かす。そういうことがある。
 そのリズムを、西脇のことの行のわたりは具体的に再現している。
 「意味」ではなく、呼吸。息。息がここにある。

(そげなことを思いながら)

 これは、いまの会話口語で言いなおすなら、「なんちゃって」ということになるだろうか。
 勢いで動いていくことば、肉体が自然に発してしまうことば--それを、状況の変化(まわりの反応)をみて、急に方向転換する。そういうとき、「論理的」なことばの運動ではだめである。「論理的」ではなく、脱論理--肉体の無意味さで、それ以前のことばをたたき壊すような乱暴さ(乱暴のやさしさ)が必要である。

 ことばにとって(日常のことばにとって)、「意味」は重要ではない。対話にとって重要なのは、呼吸、息。息が合えば、なんとかなるのだ。
 西脇のことばは、いろんな「出典」を抱え込んでいる。(そういう分析を熱心にしているひともいる。)「出典」を明確にすることで「意味」がわかることがある。けれど、「出典」では絶対にわからないものがある。なぜ、そこにその「出典」が、という根拠である。
 あらゆることば--西脇のことばにかぎらず、だれのことばでも、そのことばが発せられるとき、そこには独自の呼吸(息)がある。リズムと音楽がある。「意味」ではなく、私は、そういう音楽、呼吸にいつも誘い込まれる。





西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社



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