「まよ中におれが考えたことを
あの女にきかせるよりは死ん
だ方がましだ」
(そげなことを思いながら)
西脇の詩には不自然な改行、ことばの「行わたり」が頻繁にみられるけれど、「死ん/だ方がましだ」は、とりわけかわっている。「死んだ/方がましだ」なら、まだ「死んだ」でいったん「意味」が完結し、それが次の行で破壊される(と、いうか、方向転換される)ので、強引な感じはしない。「死ん/だ方がましだ」は、どうみても強引である。
でも、なぜ、強引に感じるんだろう。「意味」を追うからだろう。しかし、その「意味」とはなんだろう。「頭」で追いかける「意味」だ。
「肉体」は、ほんとうはそんなふうにことばを追いかけないかもしれない。
思わず「死」ということばを口にして、そこでいったん立ち止まる。勢いで「死ん」まで言ってしまうが、言いながら、いまのことばでよかったかな? 言っちゃいけないんじゃないかな? ふと、迷う。その迷いの瞬間を乗り越えて、急遽、ことばを別な方向に動かす。そういうことがある。
そのリズムを、西脇のことの行のわたりは具体的に再現している。
「意味」ではなく、呼吸。息。息がここにある。
(そげなことを思いながら)
これは、いまの会話口語で言いなおすなら、「なんちゃって」ということになるだろうか。
勢いで動いていくことば、肉体が自然に発してしまうことば--それを、状況の変化(まわりの反応)をみて、急に方向転換する。そういうとき、「論理的」なことばの運動ではだめである。「論理的」ではなく、脱論理--肉体の無意味さで、それ以前のことばをたたき壊すような乱暴さ(乱暴のやさしさ)が必要である。
ことばにとって(日常のことばにとって)、「意味」は重要ではない。対話にとって重要なのは、呼吸、息。息が合えば、なんとかなるのだ。
西脇のことばは、いろんな「出典」を抱え込んでいる。(そういう分析を熱心にしているひともいる。)「出典」を明確にすることで「意味」がわかることがある。けれど、「出典」では絶対にわからないものがある。なぜ、そこにその「出典」が、という根拠である。
あらゆることば--西脇のことばにかぎらず、だれのことばでも、そのことばが発せられるとき、そこには独自の呼吸(息)がある。リズムと音楽がある。「意味」ではなく、私は、そういう音楽、呼吸にいつも誘い込まれる。
![]() | 西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章 |
太田 昌孝 | |
風媒社 |
