ハナズホウやマメいろにそめた
袖なしを着て四人の男が
タランボウの木の
みおさめに
雷のならないうちに歩いた
の「タランボウ」が実はわからない。「タラノ木」というものが『宝石の眠り』に出てくるので、これだろうと、いいかげんな見当をつけている。音が楽しい。「ボウ」にはなんとなく親しいものに対する呼びかけのようなものがある。愛称、っぽい。それが、なんとなくうれしいのである。
その書き出しの、少し後。
こわれた花瓶のような坂を越えた
トウダイグサやアザミの藪で
キリギリスは呪文をとなえる
人間の声におどろいて半分でやめる
この「人間の声におどろいて半分でやめる」が、特に「半分」がとても好きだ。途中で、というのと「意味」は同じだろう。途中、といっても、それがほんとうに「途中」かどうかは人間にはわからないことである。同じように「半分」もそれがほんとうに「半分」かどうかなど、人間にはわかるはずがない。けれど、そのわからないものを「半分」と言い切ってしまうところがおもしろい。「途中」よりも「半分」の方が、全体(?)が見えそうでおかしい。それに、音がとてもいい。「途中」でやめるだと、奇妙に重たい。真剣というか、真面目な感じがする。「半分」は軽い。その軽さが「呪文」の重さを洗い流す。
このあ、詩は、
人間の言葉は悪魔の咳にすぎない
という行へとつづくのだが、このなにやら重大なのか、冗談なのかわからないことばの運動も「半分」のおかげで、とても軽く弾む。重大な意味にも、冗談にもならなず、「半分」のことばそのままに、その「真ん中(半分のところ)」を動いていく。
あらゆることばが、「意味」から「半分」離れて動いていく。
ある粘土の井戸もなくなつた
コンクリートの電気ポンプになつた
ノビラ氏はものの涙のために
悲しい「ダ」の宴を開いてくれた
麦酒赤飯油いためのサヤマメやニンジン
青紫の皮のやわらかなナス
「菊」を「ジコウ」に酌んだ
主人とともに絃琴に合わせて
農業政策と物価論を歌つた
「農業政策」「物価論」を「語った」ではなく、「歌った」--そんなものなど歌えないだろう。でも、歌ってしまうのだ。
「歌った」の方が音がおもしろい。
そして、このときの音というのは、現実に「耳」が聞く音ではなく、意識が聞く音である。「歌った」という、ありきたりのことばのなかにある音が、「農業政策」「物価論」という音とぶつかって、「農業政策」「物価論」を「意味」ではなく、音そのものにしてしまう。実際に何を語ったかは問題ではない。「のうぎょうせいさく」(のーぎょーせーさく)「ぶっかろん」という音が「意味」から剥がされて浮かんでいる感じが「歌つた」によって生まれてくるのである。
![]() | 西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1) |
西脇 順三郎 | |
新潮社 |
