誰も書かなかった西脇順三郎(190 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 『禮記』。「タランボウ」という詩がある。

ハナズホウやマメいろにそめた
袖なしを着て四人の男が
タランボウの木の
みおさめに
雷のならないうちに歩いた

 の「タランボウ」が実はわからない。「タラノ木」というものが『宝石の眠り』に出てくるので、これだろうと、いいかげんな見当をつけている。音が楽しい。「ボウ」にはなんとなく親しいものに対する呼びかけのようなものがある。愛称、っぽい。それが、なんとなくうれしいのである。
 その書き出しの、少し後。

こわれた花瓶のような坂を越えた
トウダイグサやアザミの藪で
キリギリスは呪文をとなえる
人間の声におどろいて半分でやめる

 この「人間の声におどろいて半分でやめる」が、特に「半分」がとても好きだ。途中で、というのと「意味」は同じだろう。途中、といっても、それがほんとうに「途中」かどうかは人間にはわからないことである。同じように「半分」もそれがほんとうに「半分」かどうかなど、人間にはわかるはずがない。けれど、そのわからないものを「半分」と言い切ってしまうところがおもしろい。「途中」よりも「半分」の方が、全体(?)が見えそうでおかしい。それに、音がとてもいい。「途中」でやめるだと、奇妙に重たい。真剣というか、真面目な感じがする。「半分」は軽い。その軽さが「呪文」の重さを洗い流す。
 このあ、詩は、

人間の言葉は悪魔の咳にすぎない

 という行へとつづくのだが、このなにやら重大なのか、冗談なのかわからないことばの運動も「半分」のおかげで、とても軽く弾む。重大な意味にも、冗談にもならなず、「半分」のことばそのままに、その「真ん中(半分のところ)」を動いていく。
 あらゆることばが、「意味」から「半分」離れて動いていく。

ある粘土の井戸もなくなつた
コンクリートの電気ポンプになつた
ノビラ氏はものの涙のために
悲しい「ダ」の宴を開いてくれた
麦酒赤飯油いためのサヤマメやニンジン
青紫の皮のやわらかなナス
「菊」を「ジコウ」に酌んだ
主人とともに絃琴に合わせて
農業政策と物価論を歌つた

 「農業政策」「物価論」を「語った」ではなく、「歌った」--そんなものなど歌えないだろう。でも、歌ってしまうのだ。
 「歌った」の方が音がおもしろい。
 そして、このときの音というのは、現実に「耳」が聞く音ではなく、意識が聞く音である。「歌った」という、ありきたりのことばのなかにある音が、「農業政策」「物価論」という音とぶつかって、「農業政策」「物価論」を「意味」ではなく、音そのものにしてしまう。実際に何を語ったかは問題ではない。「のうぎょうせいさく」(のーぎょーせーさく)「ぶっかろん」という音が「意味」から剥がされて浮かんでいる感じが「歌つた」によって生まれてくるのである。




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西脇 順三郎
新潮社


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