疲れた若い
労働者の夫婦が
窓のところへ椅子を
引き寄せて
トスカーナの野に沈む
太陽を
淋しそうに
見ていた
すばやく書かれたスケッチのように感じられる。この連では「引き寄せて」という1行にひきつけられる。
西脇は、若い夫婦が実際に椅子を引き寄せる瞬間を見たわけではないだろう。西脇が見たときは、すでに椅子は窓辺にあって、ふたりは椅子にすわっていただろう。けれど、それを「窓辺の椅子にすわって」にしてしまうと、とてもつまらなくなる。スケッチが止まってしまう。そこではひとが動いていないのだが、その動いていない現実の中へ「過去」をもってくる。過去という「下絵」をわざとすかしてみせる。そうするとそこに「時間」が生まれ、「淋しそう(淋しさ)」が時間に関係していることがわかってくる。
「ローマの休日」にも、肉体の動きを強く感じさせる部分がある。
烏も雀も鶏も
いないが
寺院のチャイムがある
踵の感覚は
材木から大理石へと変化した
歩き回っている。そのとき足が感じる通りの変化。足裏ではなく、「踵」とより限定的にことばを動かすことで、まるで歩いている感じになる。そして、ここでは肉体の動きは、単に筋肉の動きではなく、肉体の内部を動く「感覚」というのもおもしろい。
こういう感覚--感覚の覚醒が、そして、実は「脳髄」の運動へとつながっていくというのが西脇の特徴である。(逆もある。つまり脳髄の運動のあとに、それを解放する肉体の運動がくる、という動きもある。)
詩のつぎき。
ニイチェのように眠られない
眠ることは芸術だ
芥子粒は魔術だ
今日は
マルコニー侯爵婦人の名前の
スペリングを間違えたから
謝りに行かなければ
ならない
踵からニイチェへ。芸術へ。そしてスペリングのミス。この変化に、肉体の運動が響きあっている。
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西脇 順三郎 | |
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