光と影が印象的である。光と影の印象は何回か変わる。
光と影。--冒頭のレイラが刑務所長(?)から恩赦について聞いているシーンが象徴的である。窓からの光が刑務所長の顔の一部を、口元を照らしている。眼鏡に反射した光は、刑務所長の目を隠している。レイラの目にも光と影が交錯している。まるでスポットライトのように、強い輝きと、それと対峙する強い影をつくりだしている。それは法の指導という強烈な光と犯罪という対比のようにさえ感じられる。
恩赦で出所したレイラがヤコブ神父の元へ行く。その室内の光は、冒頭の刑務所の光とは違っている。神父館。やはり光は外からはいってきて、室内のなかに光と影をつくりだす。ただし、コントラストはいくぶんやわらいでいる。人間を照らしているというより、つつんでいるという感じがする。室内にはいりこんだ光が人間を照らし、影をつくり、同時にその影さえもつつんでいる。「愛の力」でやさしくつつむ、そういうことばがふと浮かんでくる。そういうことを想像させる光と影である。
終身刑であったレイラという女性とヤコブ(神父)の交流、舞台である神父館を考えると、この人間をつつむ光について「神」というようなことばも浮かんでくるのだが、なんとなく違う気もする。これは私が「神」を信じていない、というか、「神」についてなにも知らないからかもしれないが……。少なくとも、私は「神」の光というものを感じなかった。
この光の印象は、最後にもう1回変わるのだが、その前に、雨がふる。雨が出てくる。そして、このときから私は、そこにある光をただ自然の光と感じた。北欧の(南欧とは違った)やわらかい光。その光が、やわらかさゆえに小さな窓からも部屋にしずかににじむようにして入ってくる。それだけである。「愛の力」でつつむ光ではないのだ。それは、雨が「導き」でないのと同じである。ただ、そこにあるだけである。雨の非情さ(人間に対して何か導くとか逆に拒絶して何かを知らせるとかいう操作をいっさいしないこと)は、雨漏りとなって表現されている。雨が降って、屋根が破れていれば雨漏りがする。ただそれだけ。自然とはそういうものだ。
それは逆説的な言い方になるが、ヤコブが教会のなかで神と自分の関係を見つめなおしたとき(助けを求める手紙と自分との関係を見つめなおしたとき)、はっきりする。自分の無力さ(神の無力さ)を自覚したとき、明確に描かれる。
最後の最後に、神父と、恩赦で神父のところへやってきたレイラがこころを触れあわせるのだが、そのときの二人がいる場所は、教会でもなければ神父館でもない。神父館の庭、外である。そこにあるのは「自然の光」である。ただそこにあるだけの光である。人間に対しては何もしない。指導も、つつみもしない。人間は、そこで無防備にさらされる。
そして無防備のまま、レイラは嘘をつく。神父にきた手紙を読むというふりをしながら、自分自身の書かれなかった「手紙」を読む。自分自身の物語を語る。その物語を聞いたあと、神父は「手紙」に返事を書かない。そのかわりにレイラの姉の手紙をレイラに届ける。神父が「郵便配達」というただの人間になる。
神とは無関係の、ただの人間と人間との、無防備な出会いが、そこにある。そして、その人間と人間との出会いがかみあった瞬間、人間が輝く。それは何かの光(法の光、神の光)を受けて、あるいは光につつまれて輝くのではなく、人間そのものが「発光」するのである。光を放つのである。
このとき、人間の影はどこに? 人間の肉体の内部、心の底に、静かに沈んでいくのである。
これが美しい。
人間と人間の出会いが人間を輝かせる--発光させる。それはレイラとヤコブの出会いそのもののことかもしれない。そして、それはまた神の否定につながるかもしれないし、そうした神を超えた人間と人間の出会いこそ神が準備しているものだと言えるかもしれない。たぶん、キリスト教徒はそういうだろなあ。
まあ、いい。
この映画は完全なハッピーエンドという形ではないのだが、そのことがまた逆に人間について、いろいいろ考えさせてくれる。