誰も書かなかった西脇順三郎(175 ) | 詩はどこにあるか

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 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。
 西脇が「視覚」ではなく「聴覚」の詩人であることは、次の部分がより明瞭に証明しているかもしれない。

ごろごろいう幻像も
曲つた錯覚も
考える心のはてに
きいてしまつた

 「見てしまつた」ではなく「きいてしまつた」。
 「幻聴」なら「ごろごろいう」かもしれない。しかし「幻影」は目にみえるものだから「ごろごろいう」ことなどない。そういう音をともなわないものさえ、西脇は音をともなったものとして書いている。また「曲つた」は「幻影」同様、やはり視覚で判断するものである。それも「きいてしまつた」ということばが引き受ける。目で見たもの、耳できいたもの、それが交錯し、認識(考え)はできあがるのだけれど、その認識を統合するのは、西脇の場合「視覚」(見る)ではなく、聴覚「聞く」なのである。「考える心のはてに」その「考え」を「聞く」という肉体の動きが残るのである。

幻影よまつてよ
このツワブキの花を
びんにさすまで
オドリコソウのおどろきは
おどろの下でひよどりの
おとす糞を待つている

 この「しりとり(?)」を動かすのも、また音である。

 一方、西脇はたしかに「視覚」も書いている。「見る」についても書いている。

永遠という光線を通してみる
とすべてのものは透明になつて
みえなくなるわ
この赤い薔薇の実も
あの女のボウツ派のボートの帽子も
永遠という水の中で
すべて屈折してみえる
すべての色はうすくなる

 ここには「視覚」が強烈に描かれている。しかし、そういうときでも「ボウツ派のボートの帽子も」という音が飛びこんできて「意味」をひっかきまわす。また突然の「みえなくなるわ」という女ことばの音が「肉体」をくすぐる。
 私はどうしても西脇の「音」の方にひっぱられてしまう。音のなかには「考え(認識)」にならないもの、もっと生な現実の「手触り」のようなものがあるのかもしれない。これはもしかすると、西脇は「音」に対しては「絵(視覚)」に対してほど洗練されていなかったということかもしれない。(西脇の描いた「絵」はどこかで見たことがあるが、西脇が歌った「歌」とか演奏した「曲」、あるいは作曲した「音楽」というものを、私は知らない。--洗練されていないというのは、音を「音の芸術」としてつくりだしていないという意味である。)
 「音」は野蛮で、認識からとおい。(かけすが鳴いてやかましい--認識を破るものが音なのである。)それは、次の部分にも書かれている。

無は永遠の存在だ
永遠に存在するものは無だけだ
永遠にやるせない音を残して
女は便所からもどつてまた
帽子をかぶつたまま
そうつづけている

 「永遠」談義を破る「音」。「便所」の「音」。ああ、いいなあ、このリアリティー。「認識」を笑い飛ばす「肉体」。





続・幻影の人 西脇順三郎を語る
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