西脇のひとつのことばは次のことばとどういう関係があるのか。修飾語(修飾節)と被修飾語(被修飾節)の関係がわかりにくい。
人間が考えられない記号で仕組まれた
世界に落ちたこの青磁色の世界
「考えられない」は「記号」の修飾している。では、「記号で仕組まれた」は2行目の冒頭の「世界」を修飾しているのか。それとも2行目の終わりの「青磁色の世界」を修飾しているのか--というような考えがふいに浮かぶのは、「人間が考えられない」ものが何なのか考えてしまうからかもしれない。
何を考えられない?
たとえばある「記号」を考えられない。けれど、その記号を考えられないということは考えられる。--変な言い方だが、人間は「考えられないということ」を考えることができるし、ことばにもすることができる。
世界に落ちたこの青磁色の世界
の冒頭の「世界」と末尾の「世界」は同じことば、同じ文字ではあるけれど、違ったものを指し示している--と考えるのが一般的かもしれない。けれど、それは同じものであり、ある瞬間に冒頭の「世界」ということばがあらわれ、次に末尾の「世界」蛾あらわれるとき、冒頭の「世界」は末尾の「世界」のなかに凝縮しているということもあるのだ。どちらが外(大きい)、どちらがその内部(小さい)ということは、ない、と考えることもできる。
そんなことでは困るのだけれど、そういう困ったものが詩なのだ。きっと。
そこにあることば--それに触れて、自分の知っていることばがひっかきまわされる。そのとき、ふいに、何かが触れてくる。それが詩である。
人間が考えられない記号で仕組まれた
世界に落ちたこの青磁色の世界
残された金でくるまエビのテンプラと
ラム酒をいそいでたべてもどつて
「記号」「青磁色の世界」から「くるまエビのテンプラ」へ一気に移動する。その途中には「残された金で」という、なんだか俗っぽいことばの「橋」がある。「残された金」が「考え」「記号」というような抽象的なものでないために、「くるまエビのテンプラ」がとても自然に感じられる。
こういう変な運動も、ことばはしてしまう。西脇は、ことばにこんな運動をさせている。
この「残された金」とか「いそいでたべて」とか、あまりに日常的過ぎて、詩には書かないようなことばを書きながら、ことばの「論理」のタガをはず。ことばを自由にする。
この絶望のぼつらくのカミツレの
シオンの紫の夕暮のカーテンが
さがるのをみるこのクロイドンの男の
庭に立寄つてみるこの秋の悲しみを
このすすきの穂がちらつく窓から
悲しむ人間のほそながい顔は
神農のたべものにあげるだけだ
「意味」を追ってはいけないのだ。没落は「ぼつらく」に、カミレルら「カミツレ」になってしまう。ことばは「意味」ではなく、「音」そのものとして、ここにある。
いつくものことばが書かれ、それを「この」と「の」がつないで行く。「この」という特定の意識、そして「の」による無限(?)の連続。
ことばは、動くことで、別のことばを探す。その探すと言う動きのなかに、詩がある。何かが分かっていて書くのではない。分からないから、それを探しあてるために書くのだ。
人間の苦しみから
人間の繁殖が芽生え
「ひさしぶりだな」
だが永遠に別れて行つた
「この絶望の」からの「この」と「の」の繰り返しによる長い連続があったあとだけに、この4行のリズムの転換、すばやさが気持ちがいい。「ひさしぶりだな」のなかに、「人間の苦しみから/人間の繁殖が芽生え」(恋愛とセックスと出産があり)「だが永遠に別れて行つた」が凝縮する。
![]() | Ambarvalia―西脇順三郎詩集 |
西脇 順三郎 | |
恒文社 |
