多摩川から梨をもつてきてくれた
女のくつしたのなま白い
秋のすみれの香りにもまさる
このくだものの露のつめたい
出世が出来ない男が宮人のまねして
沼のほとりをひとりで歩いている
行と行とのつながり具合がよくわからない。詩だから、「意味」がきちんと成り立たなくてもいいのだろうけれど……。梨(くだもの)、女、男、沼が断片的に思い浮かぶ。男が「沼のほとりをひとりで歩いている」という1行の「ほとり」「ひとり」の音は、「ほとり」というものは「ひとり」で歩かないといけないのだ、という気持ちを呼び起こす。そして、その前に「女」と「宮人」が登場するからかもしれないが、私は「ほとり」のなかに「ほと(陰)」を読んでしまう。女の陰部。「沼」が、そのまま「ほと」でもあるような感じがするのである。
この「ほと(陰)」呼び覚ますものに、2行目がある。「女のくつしたのなま白い」。これは、ほんとうに女の靴下を描写しているのかどうかわからない。梨の果肉の色が「くつしたのなま白い」色に似ているというイメージに受け取れないことはないけれど、「なま白い」の「なま」の音がいろいろとスケべこころを刺激するのである。
この行自体は、つく「し」た、なま「し」ろいという音のつながりによって成立しているのだが、そこに「なま」が入ってくることで、「女」が「なま」めかしくなる。そして、それが「ほと(陰)」につながる。
「このくだものの露のつめたい」というのは、ふつうなら「露」ではなく「汁」(果汁)だと思うが、「つ」ゆによって、「つ」めたいが自然に動く。そして、その「つめたい」はなんとなく、「なま」めかしい「女」の、「なま」めかしいくせに「つめたい」感じを浮かびあがらせる。それとも、「女」は「つめたい」ことによって、男には「なま」の欲情をそそるのか、めざめさせるのか……。
女がいて、男がいて、そして、そこにはセックスは存在しない。そのとき「ひとり」が浮き彫りになり、その「ひとり」がいろいろと妄想を誘ってくれる。
--こんなふうに読みながら、遊んでしまうのは、私だけかもしれないが……。
そして、このあと。
葦のなかでかいつぶりがねずみを追つている
「身分のひくい」女がひしをとつている
これは「沼」の描写かもしれないが、「身分のひくい」ということばが強烈である。「宮人」(男)と「身分のひくい」女の対比が、私が先に書いた妄想をばっさり切り捨てる。
「宮人(男)」と「身分のひくい」女がセックスをしてはいけないというのではないが、「宮人」ということばと「身分のひくい」ということばが、それまでのことばのなかに、「接続」ではなく「断絶」を持ち込む。
この「断絶」の挿入(乱入?)を、私はとても美しいと感じる。
この美しさは--一種の爆発である。爆発の瞬間、「空間」がかわる。「空気」がかわる。爆発とは、空気(空間)そのものの変化なのだ。
この「断絶」と、それにともなう激しい「空気」の変化。このなかに、西脇が頻繁に書いている「淋しい」があると、私は感じている。
異質なものが出会う瞬間、それまでの「空気」ががらりとかわる。そういう劇的な変化をもたらしてくれる「存在」。その存在(もの)に淋しさがあり、淋しさだけが、世界を変えうるのだ。
![]() | 野原をゆく (1972年) (現代日本のエッセイ) |
西脇 順三郎 | |
毎日新聞社 |
