冒頭の蓮の花のシーン、そしてラストの主人公が首の傷を隠すために彫った入れ墨のシーン(肌と入れ墨の模様)は、なかなか美しい。特に、入れ墨は、人の行為は何かをあらわすためであるというより、何かを隠すためであるという「芸術観(人間観察)」はこの映画全体を象徴している。いちばん特徴的なのは、自殺する夫が恋人(男)を妻に紹介するシーンである。恋人であることを隠すために、友人として妻に紹介するのである。もう、男が恋人であるということはばれてしまっているのだが……。
しかし、この人間観察は、映画のなかでは深まってゆかない。上滑りである。明かりの少ないざらざらした映像のなかで、やたら男と男のセックスシーンが多い。もっとほかにも描きようがあるのではないかと思うくらいセックスシーンに頼っている。「ブロークバックマウンテン」とは、そこが大きく違う。「ブロークバックマウンテン」はセックスからはじまり、純愛で終わるという、ふつうの恋愛とはまったく逆な過程を描いていて大変おもしろかったが、「スプリング・フィーバー」はセックスからはじまり、セックス後の空しさと、それについてまわる憎しみで終わる。まあ、これが「いま」の恋愛なのかもしれないが、なんとも救いがない。入れ墨の「花」は傷を隠すのではなく、結局、こころの苦い傷、入れ墨のようにけっして消えない傷をあらわす--というのでは、あまりにも「図式的」で退屈である。
この映画で見るべきなのは、モンスーン気候の緑と雨(水)の織りなす美しい揺らぎかもしれない。春のやわらかな緑が、雨にぬれてますますやわらかくなる。細かい雨に、木々の緑のやわらかさが溶けだし、空気のなかで、いままでなかった何かに変わってしまうような不思議な美しさがある。
しかし、冒頭の蓮の花は、なぜ、あんなプランターのようなところに蓮の花が咲いているのかという不自然さ、わざとらしさが残る。春の嵐のさなか、車から降りて、じゃれながら連れションするのもわざとらしい。美しいけれども、「わざと」がつきまとう。
もちろん、詩というのは、一種の「わざと」によって生まれる。「わざと」表現されたものではない偶然は「詩」ではないのだから、「わざと」は「わざと」でいいのかもしれいなが……。
そのときの美しさが、「長江哀歌」がすでにやりとげたことのコピーで終わっているから、「わざと」が目立つのである。ハンディカメラによる撮影がそっくりだし、暮らしの細部にカメラを近づけていくのも同じである。暮らしのなかの、存在そのものの生きてきた痕跡--その美しさ、生物の美しさは「長江哀歌」が撮りつくしている。これを超えるのは、中国における男色というような特異な題材では「わざと」が浮き立つだけである。
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