誰も書かなかった西脇順三郎(169 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。

なにしろあの山百合は
歯医者のかえりにいさらごのあたりを
うろつくちばの魚うりの女が
駅まで出る坂道で折つてきた
美しいへそくりの胡麻すりの
八月の日の愛情のあわれみだ
銅銭のやわらかみはもう
入口のくらやみには残つていない

 ここには何が書かれているのか。
 「あの山百合は」「ちばの魚うりの女が」「折つてきた」もの。その花には「あわれみ」「やわらかみ」「くらやみ」というような淋しさは「残つていない」--と、私の「頭」は強引に読みとってしまう。つまり、山百合の花と魚売りの女が出会い、その出会いのなかで、こころの奥にある感情がゆさぶられ、ゆさぶられるままに、ああでもない、こうでもないとことばが動いている。
 でも、そんなことはどうでもいいなあ。
 こころが、ことばが動くとき、その動きを私は自分でコントロールできない。西脇のことばのリズムに突き動かされて、いま書いたばかりの魚売りの女と山百合の出会いから逃れられなくなる。
 かえ「り」に、あた「り」を、「う」ろつく、魚「う」り、駅ま「で」、坂道「で」、へそく「り」、胡麻す「り」、あわれ「み」、やわらか「み」、くらや「み」。
 そこに書かれていることばは、「意味」もあるだろうけれど、それ以上に「音」をもっていて、その「音」がどうしても気になる。その「音」から逃れられなくなる。

美しいへそくりの胡麻すりの

 という1行は、これはほんとうに「意味」なんか、ぜんぜん、つかめない。澤正宏(福島大、人間発達文化学教授)にでも聴けば、出典と、それらしい「意味」は教えてくれるかもしれないが、私は「へそくりの胡麻すりの」という音だけで満足だし、「美しいへそくり」ということばのなかには「美しいへそ」があり、そこから女の裸なんかが浮かび上がるところが大好きだ。「へそ」の「胡麻」ということばを連想させるのもいいなあ。「「へそ」の「胡麻」と感じているときは、ことばではなく、女の裸を感じているのだけれど。
 そして、そこに女の裸を感じるからこそ「あわれみ」「やわらかみ」「くらやみ」ということばがぴったり感じられる。
 魚売りのたくましい(?)というか、頑丈な女と山百合。その取り合わせが、「意味」はわからないけれど「美しいへそくりの胡麻すりの」なんだなあ。

なまなすに塩をかけて
この美しい紫の悪魔を食うのだ
ピースにすい口をつけて吸い
呪文をとなえて充分
女神の分裂をさけるのだ
永遠は永遠自身の存在であつて
人間の存在にはふれていない
永遠をいくらつぶしてうすくしても
限定の世界にはならない
にわつとりがなく
また人類の夜明けだ
神々のたそがれはもう
ふたたびたまごの中にはいつた

 先に指摘したのとおなじ「音」の動きがここでも見られる。しかし、ここでいちばんおもしろいのは、

にわつとりがなく

 の1行である。
 ことばの転換の仕方としては、「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」とおなじものだが、音がケッサクである。
 「にわとりがなく」(鶏が鳴く)では、「音」がまったくおもしろくない。「にわつとり」(にわっとり)と促音が入ることでことばが弾む。「にわつとり」は次の行の「夜明け」を呼び出すのだが、その夜明けは「にわつとり」の「音」(なく--ということばに従えば、にわとりの「トキ」をつくる声だね)に破られて、夜明けどころか、真昼も飛び越してしまいそうである。実際、次の行では「たそがれ」になるのだけれど。
 その前に書いてあるのは、なにやら哲学じみたことがら、「意味」のありそうなことばなのだが、そんなものは、もういいなあ。「にわつとり」「にわつとり」「にわつとり」と叫びながら走り回りたい気持ちになる。
 この「無意味」、ナンセンスな肉体のよろこびが私は大好きだ。




詩学 (1968年)
西脇 順三郎
筑摩書房