かつて見たとき、印象に残ったのはサンフランシスコのカーチェイスと夜の空港、滑走路での追跡である。今回、「午前十時の映画祭」で見直して、やはりカーチェイスのシーンがすばらしいと感じたが、全体も非常に充実していることに気がついた。
冒頭、監督らのクレジットの文字のなかから場面があらわれるのも新鮮だが、それ以上にひとつひとつのシーンが「もの」の材質に迫っている。単に「もの」をスクリーンに映し出すのではなく、「もの」の存在感をスクリーンに定着させている。オフィスの襲撃(強盗?)のシーンの、室内の感じ、壁の感じ、ガラスの感じ、光と闇の感じ--そして、そこから、登場人物の「素質」のようなものも感じられる。あ、これは役者の「存在感」をそのままスクリーンに定着させて動いていく映画なのだ、とわかる。
主役はスティーヴ・マックイーン。その演技が、ストイックでとてもおもしろい。「事件」を頭で完全に理解し、その理解にそって肉体を動かしている。アクションの基本は「頭脳」なのだという印象を強く浮かび上がらせる。--こんな映画とは、知らなかった。そのことに、とても驚かせた。昔見た映画とは別物、という感じすらした。
役者の「素質」というか「素材」のおもしろさ--それが端的に出ているのがロバート・デュバルのつかい方である。タクシーの運転手を演じている。後部座席のシートの後ろに犬のぬいぐるみを置いている。スティーヴ・マックイーンが被害者の動き再確認するために、そのタクシーに乗る。ロバート・デュバルはいろいろ「証言」するのだが、その最後の決めて、
「被害者は2度電話した。2度目は遠距離だ」
「どうして遠距離とわかる」
「コインの数だ」
この冷静な分析。さすが、「ゴッド・ファーザー」の弁護士だなあ。ロバート・デュバルに演じられないなあ、と感心してしまった。(昔は、ロバート・デュバルなんて、知らなかった。)
ジャクリーン・ビセットもおもしろい。使える車がなくなったとき、スティーブ・マックイーンの「足」になって車を運転する。途中で、異変に気づき、殺人の「現場」へ駆けつける。マックイーンに何か起きたのでは、と心配してのことなのだが。そのときの、カンのあらわし方、その後の悲しみのあらわし方--特に、悲しみの深さが彼女をより美しくみせるというつかい方が、とてもすばらしい。ジャクリーン・ビセットには悲しみの中で知的に輝き、そのとき彼女の人間としてのやさしさがあふれる。
カーチェイスは、いまの映画に比べると「地味」なのだが、その地味さのなかに、美しさがある。サンフランシスコの坂をとてもよくつかっている。坂はずーっと斜面なのではなく、道とクロスするとき平らな部分が出てくる。その平らな部分を通り、もう一度さかに入る瞬間、車が必然的にジャンプする形になる。そこに無理がない。ここでもサンフランシスコという町(坂)の材質・素質(?)というものが浮き彫りになる。車の運動の特質も浮き彫りになる。存在感がくっきりしてきて、スクリーンを見ていることを忘れる。「町」そのもののなかで、カーチェイスを見ている感じになる。
途中、タイヤのホイールが外れるのは「演出」か「偶然」かわからないが、そのホイールの転がる音が、映像を「必然」に変えてしまう。カーチェイスそのものの材質というのは変だけれど、手触りのようなものが一気にスクリーンから噴出してくる。いまの映画のCGでは出でこない味である。
ストーリーではなく、「味」をみせる映画なのだ。この映画が「ダーティー・ハリー」のようにシリーズ化されなかったのは、ストーリーではなく、役者や都市の「味」を見せる映画であるという特質も関係しているかもしれない。
(「午前十時の映画祭」50本目)
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