この映画を最初に見たのは学生のときである。当時、ダスティン・ホフマンはアカデミー賞の主演男優賞候補の常連だった。ダスティン・ホフマンにやれない役はない--そう思われていた感じある。少なくとも、私は、そんな具合に感じていた。ダスティン・ホフマン自身、どう思っていたかはわからないけれど、もしかしたら彼自身そう思っていたのかもしれない。それで、この映画にも出てみる気になったのでは……。
こんなことから書きはじめるのは。
どうも、スティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンがかみ合わない。ストーリーはわかるのだが、二人が親近感を感じる二人には見えないのである。信頼関係というのは、変な言い方になるが、どこかに「色気」を含んでいる。それがない。スティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンが互いにひかれあう何かを感じているとは思えない。互いに相手の魅力をまったく感じていない--そういう感じがするのだ。仕事だからいっしょにやっているだけ、という感じがとても強く漂っている。
これは、たとえばスティーヴ・マックイーンが逃走の途中であう男たちとの関係と比較するとわかりやすいかもしれない。脱走兵を殺すハンターを殺した入れ墨の男、パピヨンの入れ墨を彫ってくれと頼む酋長(?)、密輸で生きているハンセン病の男--彼らとスティーヴ・マックィーンが対話するとき、そこに何か、親密な空気がある。自分を叩き壊しても、相手に接近する何かがある。「色気」がある。
ところがスティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンの間には、そういう感じがまったくない。別れの抱擁のシーンでさえ、別れを惜しんでいる感じがしない。ダスティン・ホフマンが顔で別れの感情をあらわす。けれど、それをスティーヴ・マックイーンの背中が受け止めない。まるで、いま、カメラはダスティン・ホフマンの顔の演技をアップでとらえている。おれは背中をかしてやっているだけ、という感じだ。(背中は代役?)ダスティン・ホフマンの演技を受け止めていないのだ。
しらけるのである。
演技というのは不思議なものだなあ、と思う。一人がどんなにうまく演じても、それだけではカメラに定着しないのだ。演技を受け止める相手がいて、はじめて演技になるのだ。演技とは、ある意味でセックスなのだ。恋愛なのだ。自分がどうなってもいいというつもりで相手に自分を切り開いていかなければ、かみ合わないのだ。
これは、ほんとうにほんとうに不思議な映画である。
*
この映画以降、ダスティン・ホフマンは「クレイマー、クレイマー」で復活するまで、長い長い低迷に入った--と私は思っている。ダスティン・ホフマンの最初の失敗作になるのだと思う。
(午前10時の映画祭、49本目)
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