ナボコフ『賜物』(34) | 詩はどこにあるか

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 人気のない春の森ではしっとり濡れた白樺の褐色の木立が--中でも特に小ぶりの白樺が、周りのことにはまるで関心がなく、自分の内側しか見つめていないといった風に立っていて、(略)
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 高屋窓秋の「山鳩よみればまはりに雪がふる」をふいに思い出した。窓秋のナボコフの白樺が同じものに見えた。
 ナボコフの「白樺」の文章では、誰が「小ぶりの白樺が、周りのことにはまるで関心がなく、自分の内側しか見つめていない」と感じたのかわからない。ルドルフが感じたのか。オーリャが感じたのか。誰の「心象」を代弁しているのかわからないのだが、この誰のものでもない「心象」が、不思議なことに、私をその森へ連れていく。ルドルフの心象でも、オーリャの心象でもないからこそ、私は彼らのどちらかに加担することもなく、客観的(?)に森にさまよい込む。そして、そこで一本の白樺になり、空気を呼吸する。一本の白樺になってしまう。そして、気がつく、あ、これはルドルフの心象でもオーリャの心象でもないのではなく、ふたりの心象なのである。ふたりを超えたというか、ふたりの区別をない心象というものだと気がつく。
 --これは、窓秋の句にもどっていえば、「山鳩」が「山鳩」ではなく、同時に窓秋であり、またそのことばを読む「私」でもあるという関係に似ている。あらゆる存在に区別がなくなる。個々の存在の区別を超えた何か。「一元論」の世界。誰もがその白樺を見るとき、その白樺になり、森を呼吸する。
 こういう不思議な世界が、突然、ぱっと出てくるのもナボコフの特徴だと思う。ナボコフの描写は、あるとき突然「一元論」になる。「一元論」の描写には何でももちこむことができる。どんな「心理」、誰の「心理」でももちこむことができる。だから、あ、これを「盗作」してみたい、という欲望にかられる。何かの描写、どこかの描写に、これを利用して、たとえば「街灯の下の置き去りにされた自転車が、街の喧騒にはまるで関係がなく、まるで自分の内側しかみつめていないといった風にクリスマスの雨にぬれていた」とか。そこから、誰の、どんな物語でもはじめることができる--そういう気持ちにさせられることばに、私は強くひかれる。


ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社


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