アーサー・ビナード「機上のおどり」は飛行機の乗務員が非常時のときの脱出方法説明するときの様子を描いている。飛行機に乗ったことがあるひとなら一度くらいは見たことがあるだろう。
まず両手を合わせて伸ばし、前方と中央と後方の非常口を指し、続いてシートベルトのバックルのはめ方と外し方を見せる。それから酸素マスクを軽く引っぱり、口につける動作、次に救命胴衣を着てもし膨らみが足りなければフーフーと息を吹き込むふりまでする。
何も新しいことは書いてない。そして、何も新しいことが書いていないということが、実は、新しい。
何も新しくないから、きちんとことばにすると、そこに、本来そのことばが指し示しているものとは違っているものがまじりこんでくる。アーサー・ビナードの「体験」が、「肉体」がまじりこんでくる。
一つ一つ彼女の所作にひきこまれて、盆踊りを教わった夏の夜の感覚がよみがえる。指して回り、はめて外して、引っぱって、フーフーと。
ことばにしてみると、盆踊りがまじりこむ。踊りを教わるとき、アーサー・ビナードは、単に見て、それをなぞっただけではないことがわかる。「はい、そこで、手を伸ばしてあっちを指して……」という具合に。「肉体」の動きには「ことば」がついてまわるのである。だから、「ことば」で肉体を描写してみると、そこに「肉体」が紛れ込んでくる。そのことをアーサー・ビナードは「発見」している。それが新しい。
さらに、そういう「動き」を「動作」と言わずに「所作」と呼んでいるところが、まったく「新しい」。
所作
美しいことばだなあ。この美しいことばを、アーサー・ビナードをとおして知るということが、なんだか悔しい。
「動作」ではなく「所作」ということばをつかったからこそ、アーサー・ビナードは「盆踊り」へと自然に動いていくことができたのだ。
「ことば」には「ことば」を呼び込む力がある。アーサー・ビナードは日本人ではないのに、その日本語の力を「自然」に利用している。それとも日本人ではないからこそ、日本語に敏感なのかな?
象徴性に富み、代々伝えられたこの芸も廃れるのか。
ここでも、「所作」と「芸」がしっかりと結びついている。この力はすごいなあ。「動作」ということばをつかうと、絶対にたどりつかない「思想」がここにある。「代々伝えられた」もその系譜に属することばである。
思わず、
象徴性に富み、代々伝えられたこの「所作」という「ことば」も廃れるのか。
という1行をどこかに挿入したい気持ちに襲われる。そうすることで、アーサー・ビナードに対して、「所作」という日本語を守ってくれてありがとうといいたい気持ちになる。ありがとうを伝えたい気持ちになる。
それとも着ないから解放され、星の下「サノヨイヨイ 飛行機が 出た出た飛行機が出た さぞやお月さん……」
「思想」を「思想」としてしっかり見せるなら、この最後の「炭坑節くずし」はいらないかもしれない。けれど、アーサー・ビナードはわざとそれを書いている。「思想」など、詩にはいらないからだ。だから、「炭坑節くずし」で隠しているのである。
この奥ゆかしさ(?)は、どこの国の「思想」だろう。
日本? それともアメリカ? きっとアーサー・ビナードという国の「思想」なのだ。
(アーサー・ビナード「機上のおどり」の初出は「朝日新聞」 4月6日)
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