辺見庸「善魔論」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

辺見庸「善魔論」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 辺見庸「善魔論」の2連目がおもしろい。(1連目は、ちょっとベケットを思わせる「終わりがない」感じがただよう。ただし、「すべての事後に、神が死んだのではない。すべての事後の虚に、悪魔がついに死にたえたのだ。」というようなことば、特に「虚」ということばは、「意味」を語りすぎていておもしろくない。)

クレマチス。いまさら暗れまどうな。善というなら善、悪というなら悪なのである。それでよい。夕まし、浜辺でますます青む一輪の花。もう暗れまどうことはない。あれがクレマチスというならクレマチス。いや、テッセンというならテッセンでもよい。問題は、夕まぐれにほのかに揺れて、青をしたたらせるあの花のために、ただそれだけのために、他を殺せるか、自らを殺せるか、だ。
<・blockquote>
 善と悪の違いがクママチスとテッセンの違いほどのものなら、他を殺すことと自分を殺すこともまた善と悪の違いのように差異がない。「どのみち善魔にしきられる」(3連目)。人間に「悪」はおこないえない。「悪魔」ではなく「善魔」という「虚」が人間を支配している--というような「意味」は、私には関心がない。
 私は「クレマチス」と「暗れまどう」の音楽に感激したのだ。「クレマチス」のなかに「暗れまどう」がある。もちろん「クレマチス」を「暗れまどう」と読むのは「誤読」なのだが、そのなかに「真実」がある。「クレマチス」を「暗れまどう」と読みたい欲望の真実がある。それは、べつのことばで言い換えれば、それが「クレマチス」であるかどうかは問題ではなく、ここに書かれていることばを発している人間は「暗れまどい」たいということである。「暗れまどう」というようなことをしたいと思う人間は少ないかもしれないが、そういう否定的(?)な状況をたっぷりと身にまといたいという欲望が、人間の本能のなかにある。どこかにある。それを、このことばを発している人間はみつけたのだ。
 それは「善」をおこなう「魔」、人間を「善」へとかりたてる「魔」がいる--という空しい考えから、遠く離れたいという欲望かもしれない。--という「意味」は、また、ちょっと脇にしまいこんで……。
 「クレマチス」「暗れまどう」は「夕まし」という音楽をとおって、「夕まぐれ」という音楽になる。「ま」という音が響きあう。この「ま」を「魔」に結びつけると、またまた「意味」になってしまうから、「意味」を拒絶しながら、「クレマチス」「暗れまどう」「夕まし」「夕まぐれ」という音楽だけを楽しむ。そうすると「ま」のほかに「ら行」の音が響いているのがわかる。「ら行」と「だ行」はどこか近接したところがある。(クレマチスとテッセンの外形よりは、「ら行」「だ行」は近接している--と、私の肉体は思う。)もし暗れ「まどう」が暗れ「まよう」だったとしたら、この音楽はどこかで破綻する。「暗れまどう」だからこそ「夕まぐれ」へと変奏していくことができるのだ。
 その音楽と響きあう「ますます青む一輪の花」も美しいなあ。
 けれど「テッセン」という音は「意味」(形?)としては「クレマチス」と通い合うけれど、音楽としてはクラシックのなかに安っぽいJポップスがまじりこんだよりも気持ち悪い感じがする。「ほのかに揺れて、青をしたたらせるあの花のために」というのも、とても気持ちが悪い。
 あ、辺見庸にとっては、「クレマチス」「暗れまどう」「夕まし」「夕まぐれ」というのは音楽ではないのかな? 音楽であるとしても、辺見はことばを動かすとき、音楽を捨てて「意味」へ傾く人間なんだな。
 私は「意味」に傾くことばはとても苦手である。「誤読」すると、「そういう意味じゃない」と反論されるからね。反論されること自体は、あ、そうなのか--と新しい視点を提供されるようでうれしいけれど、それが「意味」にしばられた反論だとすると楽しみがなくなる。「意味」って、楽しくない。
                          (初出は、詩文集『生首』)


詩文集 生首
辺見 庸
毎日新聞社

人気ブログランキングへ