山之内まつ子『比喩を死ぬ』は句集である。私は俳句のことはまったくわからないが、山之内の作品は「俳句」というより「一行詩」として読んだ方がいいのかもしれない。適当なことばがみつからないのだが、どうも「俳句」というには「ことば」が多すぎる。
身の丈のかわらぬ樹木に不倫する
「に」がいらないと思う。「に」があることによって、想像力がしばられる。「切れ」と言っていいのかどうか門外漢の私にはわからないことなのだが、読者を遊ばせてくれる余裕がない。読者の想像力をひとつの方向にひっぱりすぎるように思える。
たぶん、別な角度から見れば「濃密な句」という評価になるのだと思うが、私は、こういう濃密さは苦手である。
人ごみで地獄をひとつもらう癖
「癖」がうるさい。中七の「地獄」が他のことばであれば「癖」でもいいのかもしれないが、「地獄」では強すぎて「癖」がわずらわしい。
街さびれ過去の木陰を喰らう犬
「さびれ」「過去」「陰」では、ことばが整いすぎる。調和しすぎる。「矛盾」がない。矛盾とはいわなくても、あ、こんなことばの出会いがあるのか--という驚きがないと、「一期一会」という感じがしない。
「犬」も、あまりにも「人間的」すぎる。もっと人間の「暮らし」から離れたもの、とかげとか、ひとの会話から消えてしまった昆虫なんかが出てくると驚きが生まれるかもしれない。「木陰」ではなく「日向」の方が「時間」を超えるかもしれない。
鶴を折る精神不安な椅子といて
「精神不安」もうるさいが、「椅子がいて」の「いて」がなんともいえず窮屈である。「いる」といわなくても、ことばのなかには「ひと」(作者)が「いる」。その、わかりきったことばが、とてもつらい。
「折る」と「いて(いる)」というふたつの動詞があるのも、短い詩型にあっては「詰め込み過ぎ」という印象が残る。
また、山之内には予想外のことに思われるかもしれないが、この句のことばのとりあわせは、新鮮味に欠ける。「精神不安」は、たとえば大正の句なら新鮮かもしれないが、平成のいまから見ると、まるで第二次大戦前のような古くさい匂いがする。大正よりも第二次大戦前の方が時代が「新しい」から、私の書いていることは変な印象を与えるかもしれない。変な「比喩」という印象を与えるかもしれない。しかし、ものは考えようで、平成から見ると大正なんて誰からも聞いたことがないことばかりなので第二次大戦前よりも新鮮なのだ。--これは、ジャプランを経営している高岡修のことばの感覚に通じるものだが……。
批判ばかり書いて申し訳ない気もするが、イメージというよりは「意味」指向が強すぎるのだと思う。「比喩を死ぬ」という句集のタイトルにも、「意味」がこめられすぎていて、「遊び」がない。
最後になったが、気に入った句をあげておく。
柿の実の非の打ち所なく熟しけり
「熟しけり」が「切れ字」の関係もあるのかもしれないが、豊かである。余裕・遊びがある。つまり、山之内がどんな「熟柿」とともにあるのかわからないが、山之内を除外して、読者がそれぞれ勝手に自分自身の「熟柿」と向き合えるところがいい。「けり」が、余分なことばを排除している。
花しょうぶ黒澤映画の雨しきり
黒澤映画の雨は花菖蒲には過激過ぎるかもしれないが、そこがおもしろい。映画の雨は、自然の雨のこともあるが、ホースで降らせる人工の雨のときもある。そうすると、雨が太陽の加減できらきら光っていたりする。そのまぶしい雨と花菖蒲をふと思ったのである。
