それでも彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。そして他の人たちが話をしている最中も、自分が話をしている最中も、いつどこででもそうしていたように、他人の内面の透明な動きを想像しようと努め、ちょうど肘掛け椅子に座るように話相手の中に慎重に腰をおろして、その人のひじが自分の肘掛けになるように、自分の魂が他人の魂の中に入り込むようにした。
(59ページ)
話し相手の話を真剣に聞く。そのとき、ナボコフの主人公は「論理」を追っていない。「魂」を追っている。「魂」と自分の「魂」を重ねあわせる。そしてその「魂」を「透明な動き」と呼んでいる。この「透明な」はとても重要なことばかもしれない。なぜなら、もしその動きがそれぞれに「青」とか「赤」とかの「色」を持っていたら、「自分の魂が他人の魂の中に入り込」んだその瞬間に、そこに色の衝突、あるいは色の混合がはじまる。「紫」という新しい色がでてきてしまう。そういう色の変化を追うのも楽しいが、ナボコフの主人公は「透明」にこだわる。色ではなく「動き」に関心があるからだ。
そして、このとき「肉体」が大切に扱われている。「魂」に触れるには肉体も大切にしなければならないのだ。自分と他人の「魂」の「透明な」「動き」を一致させるとき、主人公は「肉体」の力を借りる。「その人のひじが自分の肘掛けになるように」とナボコフは具体的に書いている。まるで「魂」と「肉体」の細部、その動きそのもののなかにあるかのようだ。
だからこそ、ナボコフは「肉体」の動きをていねいに書く。ひとつの動きに、別の動きを重ねる。(続ける。)そうすることで、「肉体」の内部の、つまり「魂」の動きがより明確になる。少なくともひとつの動きから別の動きへとつづき、そのつづきのなかに、ひとつのものを別のものとつなげるための「根源的な意識=魂」が浮かび上がる--そう考えているらしい。
それでも彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。
煙草をふかしつづけるか、爪先をぶらぶらゆらすか、簡潔な小説なら、動きをひとつにするだろう。けれどナボコフはふたつの動きを書く。ナボコフにとって、ふたつを書くことは、複雑になることではなく、単純になることなのだ。ある動きと別の動きの「間」にある「動き」--「透明な」動きになることなのだ。
ことばは(動きを描写することばは)、重なることで、その重なりの「間」に、運動の主体である人間の「魂」を浮かび上がらせる。
文章が複雑になればなるほど、ナボコフは「透明」な運動を書きたいと思っているのだ。書けたと思っているのだ。
単純と複雑は、ナボコフにとっては、私たちがふつうつかうのとは逆な「意味」をもっている。
その「単純」の過激性は、次の部分に強烈に出ている。先の引用につづく文章である。
するとどうだろう、突然、世界の照明ががらっと変わり、彼は一瞬、実際にアレクサンドル・ヤコーヴレヴィチや、リュボーフィ・マルコヴナや、ワシリーエフになるのだった。
(59ページ)
「自分」ではなく「他人」に「なる」。「私」と「他人」がいるのではなく、そして二人が対話しているのではなく、そこには「他人」という「ひとり」だけがいる。そこで話すことばは「対話」ではなく、「ひとり」の「独白」になる。
これは「見かけ」は「ひとり」だから単純だが、実際は「単純」な世界ではなく、とても複雑である。丁寧に書こうとすると、どんどん矛盾に陥っていくしかない。
たとえば……。
このとき「見かけ」は「複数」の人間が「ひとり」に集約するのだから「単純」である。しかし、そのとき「肉体」の内部、つまり「魂」は複雑である。ある内容を語る「魂」と「ひとり」になったと認識する「魂」の「ふたつ」がないと、ある人間が「別な人間」に「なった」と書くことはできないからである。
これは、矛盾である。
![]() | 世界の文学〈8〉ナボコフ (1977年) |
| クリエーター情報なし | |
| 集英社 |
