森田芳光監督「武士の家計簿」(★★★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 森田芳光 出演 堺雅人、仲間由紀恵、中村雅俊、松坂慶子、草笛光子

 あ、これはおもしろいなあ、と思ったシーンがある。一家がごはんを食べるシーンである。「家族ゲーム」で一家が横並びで食事するシーンで度肝を抜いた森田芳光は今度は逆に家族全員が顔を見ることができるよう「コ」の字型に一家を配置している。これは、まあ、昔はふつうの家庭の食事風景であるけれど、いまは、この「コ」の字が、たぶん、ない。家族の人数が減ったということ以上に、「トップ」が不在なのだ。
 江戸時代の武士の家だから、家長がいる、というのは当然だけれど、この「コ」の字の開いた方ではなく、ふさいでいる側の位置をしめる家長というのはなかなかおもしろい視線である。両側のひとの視線とはまったく動きが違う。彼は基本的に、誰とも真っ正面から視線をあわせない。あわせる必要がないのだ。家長だから、彼が見ているように、家族は世界を見なければならない。それが武士の家族の「生き方」である。
 他の家族にもきちんとすわるべき位置がある。家長(中村雅俊)の右手に直角に折れたところに妻(松坂慶子)が、そのとなりに「おばば」(草笛光子)が、そしてそのふたりと向き合う形で、つまり中村雅俊の左隣の列に堺雅人(跡取り)、仲間由紀恵(その妻)という具合である。
 その家族は何かいうとき、家長の顔色を重視するのはもちろんだが、向き合った家族の表情も気にする。簡単に言うと、他人の視線を気にしながら自分の意見を修正し、それを家長に報告するといえばいいのだろうか。そんなふうにして他の家族がことばをかわすのに対し、先に書いたけれど、家長はそんなことは気にしないのである。中村雅俊は、江戸につとめていたころ、屋敷の門を赤く塗るときの工夫したと、何度も何度も自慢げに話すが、そのとき家族が「またか」と思っている顔などまったく見ていないのと対照的である。
 こういう視線だけでは、もちろん人間は生きていけない。直接、ひととひとが面と向かうことが必要である。「家長」も「家長」以外の人間のことばを聞かなければならない。それは、しかし、食事のときとは別なのだ。食事を離れて二人になったとき、たとえば中村雅俊と松坂慶子は面と向かって話し、堺雅人と仲間由紀恵も目と目をあわせて話し、堺雅人とその子どももはっきりと目と目をあわせ、喧嘩(?)もするのである。
 食事は、そういう「場」ではないのだ。「公式」の「場」なのだ。「家族」それぞれの位置を確認し、その「場」を統一するのは、家長の哲学なのだ。だから、食事のとき、草笛光子は中村雅俊には何も言わないが、堺雅人に対しては「和算術」の問題を出して、答えをもとめたりする。「非公式の団欒」である。それは家長の「哲学」にはかかわってこないから、なにごともなくやりすごされる。
 家長が跡をゆずるなり、死んだりした場合は、当然、その位置がかわる。中村雅俊の座っていたところに堺雅人が座る。座る位置の変化が、そのまま家族の変化なのである。それはその家の「哲学」の変化でもあるのだ。
 映画は、厖大な借金を清算するために、節約に節約を重ね(それでも武士としての生き方はしっかりと守る)一家の工夫を描いている。その工夫(節約)に子どもの「わがまま」がからんでくるところがなかなか泣かせるが、そういうあれこれがあって、清算がおわったときと、ちょうど中村雅俊夫婦、おばばが死んだときが「一致」する。つまり、完全に「家」がかわってしまったとき、「借金」はなくなる。新しい「哲学」による「一家」が誕生するという構図になっている。
 借金返済計画は家長・中村雅俊ではなく、堺雅人の指揮で遂行されるけれど、このときでも中村雅俊が生きている限りは中村雅俊が「家長」の位置にいる。「家長」は、その位置から息子の計画を認めるという形をとる。
 なんでもないようなシーンだが、この「コ」の字型の食事シーンをきちんと撮っている、ただ撮るだけではなく、そこに変化を描いているところが実に巧みだ。
 はやりの「時代劇」なのだが、多くの時代劇のように「実証」にこだわって「写実的」ではない。映像が明るい。軽い。これも、この映画の魅力である。いまの日本の財政が、ちょうどこの映画の「一家」のような状態なので、ほんとうは思いテーマなのだが、それをそう感じさせずに、なるほど、そうすればいいのか、昔のひとはしっかりしているなあ、くらいの印象にとどめているところが美しい。

 なんといえばいいのか、まあ、K首相にみせてやりたい映画である。

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