奥田春美「足の裏考」 | 詩はどこにあるか

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奥田春美「足の裏考」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 「現代詩手帖」12月号は「年鑑」。読んだことのない詩が「収穫」としてたくさん掲載されている。奥田春美「足の裏考」もその一篇。足の裏にタコがでてき、その痛みのために医者に行ったらしい。そのことから書き出されているのだが、読んでいるうちに興奮してきた。
 医者で、足の裏(足の指?)を動かしてみせるようにいわれる。その動きがシャクトリムシのようだ、と感じるのだが……。

医者はシャクトリムシを知らなかったので説明した
蛾の幼虫エダシャクトリムシの俗称です
円筒形のからだ全体を屈伸させることによって前進します
その様子が指で尺をとるところに似ているのです

 ええっ、知らなかったなあ。いや、シャクトリムシは見たことがあるし、実際に動くのを見たことがある。前進するのを見たことがある。私は田舎育ちなので、家の中にはいろんな虫が入ってくる。でも、蛾の幼虫とは知らなかった。「エダシャクトリムシ」というのが本名(?)なんて、知らなかったなあ。
 そうか、「指で尺をとる」ということが、昔は実際にあったんだなあ。たしかに、そういうことをしたことがあったなあ--とかすかに思い出すが、それが、こんなふうにことばになる--ことばになることができるとは知らなかったなあ。

桑の小枝からシャクトリムシをひきはがし地面におくと
全速力で移動します

 えええっ? そうなの? 春田はそういうことをしてみたことがあるんだ。いいなあ。やってみたいなあ。シャクトリムシの全速力って、どんな感じかなあ。擬態音で表現すると、ぴこぴこぴこ? しゃくしゃくしゃく? 動きはなんとなく目のなかに見えるけれど、全体が見えない。実感がない。あ、悔しいねえ。シャクトリムシの全速力を見たことがあるひとがいるなんて、嫉妬してしまうなあ。

地面が彼らの本来の場でないという情報を
胴体の肌触りから得るのか、視覚細胞をもつのか
知りたいと思って何十年すぎてしまった

 うーん。
 うーん、すごい。
 人間は何でも考えることができる。そして、ことばにすることができる。シャクトリムシは、悪戯された困ったなあ、どうしよう、どうしようと必死なんだろうけれど、その必死を見ながら、人間は、そんな、知らなくていいこと--だって、シャクトリムシがどんな情報を手に入れて、どう判断し、どう行動しているかなんて、何か役に立つ?--そんなことを、考え、ふと考えるだけではなく、ことばにしてしまう。ことばにしてしまうだけではなく、ことばにして、何十年も持ち歩く。
 うーん、感動してしまう。
 奥田春美に会いたくなった。会いに行きたくなった。
 私は奥田春美というひとをまったく知らない。詩の「初出」は「神奈川大学評論」64号とある。神奈川大学の先生?(何十年とあるから、学生ではないのだろうと思う。)
 ほんとうに、ほんとうに、ほんとうにおもしろい。
 ことばは、どんな「領域」へでも入り込み、入り込んだ瞬間から、そこにそのことばの発話者独自の「世界」をつくりあげてしまう。
 いま私は、奥田の詩を読み、こうやってパソコンに向かいことばを書いているのだが、そういう世界とはまったく別に、シャクトリムシが全速力で走る(?)世界があり、その全速力で走るのはなぜかと考える世界、その秘密を知りたいと思う世界があり、また、おかしいことに、知りたいと思いながらそれを知らないまま何十年生きてきて、それを思い出すという世界がある。いくつもいくつも世界があり、それは衝突もせず、一緒に存在している。いっしょに存在しているということも意識せずに、いま、ここに、そして、えつて、あそこで、それから、これからさきのいつか、どこかでも、それがある。
 そういうことを、ことばは、なんというのだろう、まったく無視して、ただシャクトリムシと全速力と、秘密だけを描き、ふいに、目の前にあらわれてくる。
 あ、この驚き。驚愕。仰天。笑いの爆発。もう、これは笑ってしまうしかない。笑いながら、あ、これは私の無知を笑っているんだなあと思いながらも、とっても気持ちがいい。

 こういうのが、きっと、詩なんだ。
 ことばに驚き--そのひとが真剣に、正直に言ったことばに、あ、そんなことばがあるの? そんな使い方していいの?と、びっくりして、噴き出して、そのあと、これは一体何なんだ。ことばって、いったいどこまで語ることができるか、と考えさせられる。
 それがきっと詩なんだと思う。

 詩はつづく。

わたしの脚はうすくて平べったい
足裏の筋肉がほとんどないらしい
歩くとき指は浮いており
問題とタコとカカトでわたしという重みを支えて
双頭に長い距離を移動してきたわけで
タコの核では激痛が爆発寸前らしい
わたしからもっとも遠い足裏にわたしの時間が露頭する

 うーむ。
 奥田はとても冷静な科学者タイプなのだ。科学者そのものなのかもしれないが。現象をことばでひとつひとつ定義して、そのことばで世界をきちんと立体化する。立体化するだけではなく、そこに時間も持ち込み、立体的な歴史を描き出す。そういう世界が、常に、奥田と共にある。
 で、どこに?
 「わたしからもっとも遠い足裏」がおもしろい。
 「足裏」って「わたし」じゃないの? もちろん「わたし」だ。その「わたし」に「遠い」「近い」がある? 奥田の場合はある。「世界」を考えている「わたし」、つまり「頭」が奥田にとってはいちばん「わたしに近い」ということになるのだ。「ことば」を動かし、そのことばで世界を組み立て直し、自分の世界を見つめなおす作業をする「頭」が「わたしの一番の核」ということになるのだろう。たしかに、そう考えると「足裏」が「もっとも遠い」ね。
 その「もっとも遠いわたし」も「わたし」なので、「わたし」はいま、激痛を回避するため--足裏に筋肉をつけ、からだの重みを筋肉にも負担させようとして、足裏を動かす練習をしている。
 そして、

シャクトリムシ運動をしているうちに
床の細かい傷を見つけ、ご飯粒を見つけ
あんぱんの上にのっていた芥子粒を見つける
足裏は大きくはっきりしたものには寛容である
微小なものやテクスチュアには敏感でナーバスである
ゴマ粒ほどのものでも靴下のなかに入ると
それが何かわからないけれど耐えられない

 「わたしからもっとも遠い足裏にわたしの時間が露頭する」と奥田が書いたとき、その「時間」は「過去」だったはずである。しかし、いま、ここに書かれている「時間」は「いま」であり、その「いま」は「いつでも」である。(いつでも、というのは「永遠」でもある、普遍であり、真理でもある。)
 そうして、こうやって書いてしまったときから「足裏」は「わたしからもっとも遠い」ものではなく、「わたし」の中心である。「わたし」に「遠い」「近い」はなくなる。「遠い」「近い」と「頭」で考えていたときだけの便宜上のものである。
 いま、「わたし」はすべて「足裏」から世界を見つめなおしている。

その夜TVドラマで四本の足がもつれあっていた
足裏はめったなことで他の足裏と直面しない
触れあわない、したがって交わらない
カメラが足もとにまわりこむ
四つの足裏はこちらを向いていっせいに演技する

そのあとの番組はワールドニュースだった
たくさんの褐色の足裏があった
コンクリートの瓦礫の上をのろのろ動いてゆく
幼児の足、女の足、片方だけの足
指の間を蝿が出たり入ったりする足裏があり
それが画面にむかって投げ出したわたしの足裏に
さしせまってくる、問いただしてくる
その場に引きずりだされそうになる

 詩はこわいなあ。ことばはこわいなあ、と思う。
 思っていること、考えていること、感じたことをことばにしてしまうと、そのことばが世界を作りかえてしまう。「遠い」どこかの国、「わたし」がいまテレビを見ている「場」からはるかに遠いところ、足裏よりももっともっと「わたし」から遠いところが、すぐそこにきている。きているだけではなく、「わたし」をそこへ引きずり込もうとしている。
 いや、これは「世界」の側の変化ではない。世界の遠近感が変わったのではない。奥田が変わったのだ。奥田がもっていた世界の遠近感が変わってしまったのである。「頭」が「中心」ではなく、「足裏」が「わたしの中心」という遠近感が、世界を違った風に見させるのである。
 ことばにすることで、ことばを書くことで、奥田がかわった。詩は、ことばは、それを書いた人間を、書きはじめる前の人間のままにはしておいてくれないのである。




かめれおんの時間
奥田 春美
思潮社


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