誰も書かなかった西脇順三郎(156 ) | 詩はどこにあるか

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誰も書かなかった西脇順三郎(156 )

 「口語」も、「自然」と同じように西脇の思考を攪拌する。そうして自由にする。そういう働きをしていると思う。

たそがれの人間はささやくだけだ
しかし人間は完全になくなることはない
ただ形をかえるだけだ
現在をなくすことは
人間の言葉をなくすことだ
どこかで人間がまたつくられている
--おつかさんはとんだことだつたね
--ながくわずらつていたんですよ
かくされたものは美しい
葡萄と蓮の実の最後のばんさんを祝福する

 「頭脳」で考えていた窮屈なことがらが、口語によって「肉体的」になる。
 人間が存在をなくすこと--死。これに対する反対概念は「生」である。「誕生」である。人間が死んでも、どこかでまた人間がつくられる--これは、誕生するという具合に読むことができる。あ、しかし、このものの見方、考え方は、私の感覚ではあまりにも「頭脳的」である。
 西脇は、ほんとうに、そんなことを言っているのか。
 私には違ったふうに感じられる。

--おつかさんはとんだことだつたね
--ながくわずらつていたんですよ

 ここには赤ちゃんの「誕生」は書かれていない。逆に、母の(たぶん、老いた母の)死が語られている。そして、その語りの中にこそ、「人間がまたつくられている」というふうに私は読むのである。
 語ることのなかで、母がよみがえる。「ながくわずらつていた」という時間がよみがえる。
 だけではない。
 そういう母の姿をひとり抱え込んでいた話者の時間がよみがえる。いのちのありかたが浮かび上がる。
 それに対して「かくされたものは美しい」というのである。このとき「かくされたもの」とは病気の母をかかえ、苦労しているその暮らしを「かくす」話者の生き方である。
 こういう態度に「美」をみるというのは、あまりに東洋的かもしれない。けれど、西脇には、そういう東洋的なものがあるのだと思う。そして、その東洋的なものが、西脇を不思議にすばやく動かしているように感じられる。



詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房