ナボコフ『賜物』(26) | 詩はどこにあるか

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ナボコフ『賜物』(26)

 ナボコフの描写が鮮烈なのは、そこに視覚の自由があるからだ。

彼が自分の詩について夢想している間にどうやら雨が降ったらしく、通りは見渡す限りその果てまで磨かれたようにつやつやしていた。すでにトラックの姿はなく、さきほどまでその牽引車(トラクター)があって場所では、歩道の際に、鳥の羽のように彎曲し、真紅を基調として虹のようにきらきら光る油の染みが残されている。アスファルトの鸚鵡だ。

 雨上がり。歩道(車道)にこぼれた油。油膜。その強烈な色彩を虹にたとえるところまでは、よくある「比喩」である。光を受けていくつもの色に輝く--それはたしかに虹である。光の反射、光の屈折--それはたしかに虹である。だが、

アスファルトの鸚鵡

 ふいにやってくる「鸚鵡」。それはどこからやってきたのか。「鳥の羽のように彎曲し」ということばが直前にあるが、まさか、その「鳥の羽」が「鸚鵡」を呼び込んだということはないだろう。逆だろう。「鸚鵡」が先にやってきて、それからそれを説明するために「鳥の羽」が選ばれているのである。
 これが「散文」である。
 詩は、意識のままに書いていくから、「鸚鵡」を先に書き、それから「鳥の羽」のように油膜の色彩が彎曲していると書くだろうけれど、視覚の運動をわかりやすくするために、ことばの衝動を制御しというか、整え直してしまうのが「散文」なのだと思う。
 そして、そうやって「散文」でことばを整え直しても、わけのわからない「鸚鵡」が詩として残ってしまう。

 ここには視覚の自由がある、としかいえない。
 ナボコフの視覚は、そこにあるものから自由に離脱する、逸脱するのである。最初の方はていねいに、雨上がりの道を近景から遠景へと動かしている。まず、近景。足元の濡れた色。それから「見渡す」という動きで「遠景」へと視線が動く。そこからまたもどってきて中景。トラックのいた場所。そうやって一通り描写した後、描写にこだわることで、いっきに「いま」「ここ」とは無関係な、虹のように雨と関係があるものとも無関係な、鸚鵡へ飛躍する。
 ナボコフの視覚は、視覚独自の「過去」をもっている、ということになるのかもしれない。


ナボコフのドン・キホーテ講義
ウラジーミル ナボコフ
晶文社

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