ナボコフ『賜物』(20) | 詩はどこにあるか

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ナボコフ『賜物』(20)

 ことば、その「音楽」へのこだわりは次の部分にも見ることができる。

  散水の燦々たる滑降台にのぼり……

 (スロープに撒くための水を入れたバケツを持って登っていくとき、水がこぼれ、滑降台の階段が燦々たる水の表面に覆われるということなのだが、毒にも薬にもならない子音反復(アリタレーション)ではそれがうまく説明できなかった)

 原文はわからないが、「散水」と「燦々たる」のことばのなかに子音反復があるのだろう。「さんすい」と「さんさん」。沼野は苦労して日本語でも子音反復(さ行、S音の繰り返し)を試みている。小説の主人公が「毒にも薬にもならない子音反復」と書いているが、まるで沼野の訳を見込んでのような感じがして、それがおかしい。
 きのう読んだ部分ではアクセントが問題になっていたが、アクセントは母音にかかわる。アクセントのある母音は長音になるのだろう。子音反復は文字通り、子音にかかわる音楽である。
 ナボコフは、どちらに対してもこだわりを持っていたということになる。

 しかし、そういう作家のことばを訳すはたいへんな作業に違いない。ロシア語を知らずに、沼野の訳に文句を言っても、とんちんかんな批判になってしまうが、こういう「音楽」の部分では、さらに的外れになってしまうだろう。
 ナボコフは音楽に、音にこだわりを持っていた--ということをどこかで意識しながら、しかし、ことばの音楽とは別な部分に焦点をしぼって、この小説を読まなければならないのかもしれない。




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世界の文学〈8〉ナボコフ (1977年)
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