ぼくはベッドの暗闇の中で旅をした。シーツと毛布を丸天井のように引っかぶって、洞窟のようにしたのだ。洞窟の遠い、遠い出口のあたりでは脇から青みがかった光がさしこんでいたが、その光は、部屋とも、ネヴァ河畔の夜とも、黒っぽいカーテンのふんわりした半透明の縁飾りとも、何の関わりもなかった。
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想像力とはものを歪めてみる力だといったのはバシュラールだと思うが、この「歪める力」が、「洞窟のようにした」の「した」に隠れている。シーツ、毛布を被ったとき、それが洞窟のように「なった」のではない。主人公は、それを自分の思いで、そのように「した」のである。歪めたのである。
そして、そのとき「洞窟」は洞窟に「した」のだからもちろん、部屋の光やその他その近くにあるものと「関わり」がないのは当然のことだが、この「関わりのなさ」も主人公が「した」ことなのだ。必然ではなく、作為なのである。
だから、それに続く、
そのうち、ようやくうとうとすると、ぼくは十本もの手にひっくり返され、誰かが絹を引き裂くような恐ろしい音ともにぼくを上から下まで切り裂いて、それから敏捷な手がぼくのなかに入り込み、心臓をぎゅっと締め付けた。
この恐怖も、実は、「ぼく」が自分で「した」ことなのだ。そうなるように自分から「夢」を見たのである。それは一種の冒険である。楽しいだけが冒険ではなく、恐怖を味わうことこそ、官能的な冒険である。
どこかで、主人公は生きている限り味わえない「死」に触れる喜びを知りたくて、あえて、そうしているのである。
私は先走りしすぎているのかもしれないが、「洞窟のようにした」の「した」にそんなことを感じた。
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