ヨシフ・ブロツキイ「秋、鷹の声」は、ことばの振幅が大きい詩である。
銀灰色、朱色、琥珀色、茶色の混じったコネチカット渓谷、
北西風に乗って、鷹は
渓谷上空を飛ぶ。遥か下方には、
あれた農家の庭、ニワトリがうずくまったり、
歩いたりしているだろう。シマリスも
ヒースの陰にいるのだろう。
このことばの振幅の大きさは、詩人の眼が複数だからである。最初の1行はだれの眼か。人間の眼か、鷹の眼か。どちらともとれる。しかし、「渓谷上空を飛ぶ。」は詩人以外の眼ではありえない。鷹は渓谷の上空を飛んでいる姿を見ることができないからである。そして、このあとがおもしろいのだ。鷹を見上げた詩人の眼がそのまま鷹に乗り移って、そこから下方を(地上を)見下ろす。鷹そのものの眼ではないから、その見たもの(見るもの)には想像が入る。「いるだろう」という推量が入る。しかし、それは推量なのだけれど、なぜか推量を超越した事実のように感じられる。そこから目撃されるものが人間の関心のあるものではなく、鷹が関心をもっているであろう「生き物」に限定されているからだ。
ここでは地上から上空を見あげる人間の眼と、上空から見下ろす鷹の眼が交錯している。地上-上空、人間-鷹と、ふたつの領域を素早く往復する眼がある。その眼の動きの距離の遠さ、そして眼が見るものの絶対性がことばの振幅を自然に大きくしているのである。
いま彼は高く気流に乗る。
眼下に見るのは--峨峨たる岩山。
険しい気流、鋼鉄製でありながら生きている骨の、
銀色の川、
「鋼鉄製の」という比喩に私はとても驚いた。この行を読んだ瞬間に、あ、この詩についての感想を書きたい、と実は思ったのである。
険しい渓谷を流れる川、その銀色の光を見て、それを「鋼鉄製」の「骨」と呼んでいるのだが、ここには不思議な視力がある。1連目、鷹に乗り移った詩人の眼はニワトリ、シマリスといった獲物を見ていた。それはあくまで鷹の眼である。(人間が想像する鷹の世界である。)けれど、鷹には「鋼鉄」は意味を持たない。つまり鷹に川が銀色に輝いたとしても「鋼鉄」に見えるはずがない。それを「鋼鉄」と感じるのは、いろいろな鋼鉄の状態を知っていて、銀色に特別な思いを抱いている人間だけである。真新しい鋼鉄。剥き出しの鋼鉄。それは、人間にとってはニワトリやシマリスのように、生(レア)な、血の滴る獲物のようなものである。
大きな振幅を往復するあいだに、人間の眼と鷹の眼が融合して、その融合したまま、未分化の眼が世界を描写しているのである。
ある存在が未分化であるのではなく、眼が未分化である。未分化の眼を通って世界が瞬間瞬間に噴出してくる。それは、いわば制御されないエネルギーの爆発である。だから、ことばの振幅はさらにさらにさらに大きくなっていくのである。
肉体と、羽毛と、羽根と、翼に育まれた心臓は、
止むことなく、はげしく打つ。
情熱と感覚で勢いをつけて。
鷹は秋の空を切り分け、
分け入る。その速さで、
茶色い小片になって、秋の空を広げ、
ようやく一点を目にとめ、
遥か上空ではなく、丈高いマツの木を
めざす。こうして、
空を見上げるコドモの無邪気な眼差しがあるのだ。
車を降りて、仰ぎ見る恋人たちがいるのだ、
ポーチに立つ女性がいるのだ。
この「肉体感覚」の混乱(融合)の激しさ。そして「視線」の混乱の激しさ。いったい、この風景を描写しているのは誰なのだ。詩人--といってしまえば簡単だが、いったい詩人はどこにいるのか。
詩人は、あるときは子供で、あるときは恋人たち(複数)で、あるときは女性である。その眼で鷹を見上げ、同時に鷹は見られていることを意識している。
激しいことばの振幅は、その激しさのあまり、振幅の軌跡を描くことができない。振幅がありすぎて、振幅がない状態と同じになってしまう。
この混乱というか、未分化は、詩が展開するにしたがって濃密になる。それはまるで「混沌(カオス)としての無」そのものである。詩人のことばを潜り抜けると、瞬間的な化学反応が起きて、そこから出現してこないものはない。あらゆるものが純粋な形、生の形であふれてくる。
鷹は天頂へ向かう。青い蒼穹へ。
双眼鏡で見れば、点滅する点、
真珠のようだ。
空で、使い慣れた食器が
割れた音がして、
何かがゆっくりと回転しながら落ちてくる。
しかし、その破片が、私たちの手のひらに落ちてきても、
痛くはない、手に触れて解けるだけだ。
もう一度きらきらと輝くのを見ることができる、
巻き毛を、穴飾りを、糸を、
虹のような、多色の、ぼやけたコンマ、楕円、螺旋、
大麦の穂、同心円を--
かつて一度は羽根が所有した美しい図柄、
地図、飛翔しながら緑の坂に積っていく白い片々。
子供たちは、晴れ晴れと装い、
ドアから走り出て、白い片々を捕まえるために、
大きな声で叫ぶ。
「冬が来た!」
秋から冬へ--季節の時間さえも融合し、新しく生まれ変わるのだ。鷹が雪をつれてきたのではない。詩人の、世界をいったん融合させ、そこからもう一度存在のすべてを噴出させる眼の力が季節をさえ変えてしまうのだ。
それにしても。
「大きな声で叫ぶ。」この1行の激しい激しい美しさ。
詩人は眼で何かを見るだけではない。それを「声」にする。ことばにする。詩人がことばを発するとき、そこから世界が生まれるのだ。
「冬が来た!」
詩人のことばのなかから、それはやって来る。いったん、遠く遠く遠くへ行って、「冬が来た!」ということばに呼び寄せられて、ほら、そこまで。
あ、日本でも、もうすぐ初雪の季節だ。
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