ナボコフ『賜物』(10) | 詩はどこにあるか

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ナボコフ『賜物』(10)

  ところがそのときボールはひとりで
  震える闇の中に飛び出して
  部屋を横切り、まっしぐら
  難攻不落の長椅子の下に。

 「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。
                                 (18ページ)

 私はこの部分に震えてしまう。深い深い快感に酔ってしまう。自分の書いたことばが「気に入らない」。そう感じている作家を想像するとき、何かしら言い知れぬ快感が襲ってくる。あ、そうなのだ、どんな作家も自分で書きながら、書いたことばが気に入らないということがあるのだ。そう思うとき、不思議な「共感」のようなものが満ちてくるのだ。ナボコフは、そしてそう書いたあと「なぜだろう」とことばを追加している。追い打ちをかけている。これが、また、私にはうれしい。気に入らないこと--その原因をさぐっていく。考える。その逸脱が興奮を誘う。
 なぜか。
 作家が自分の書いたことばが気に入らないなら、それはさっさと消してしまうか書き直せばいいだけの話である。ところがナボコフはそれを消さない(消させない)、書き直さない(書き直させない)。そして、ストーリー(?)とは無関係に、「考え」の方にことばを逸脱させていく。そのとき、ことばにできることは、もしかしたら「逸脱する」ということではないか、という思いが私を襲ってくる。
 私は「逸脱」が好きなのだ。ことばが本来追いかけなければならない何か(テーマ)を知っていながら、そこからどうしても逸脱してしまう。その逸脱の中にこそ、ほんとうに書きたい何かがあるように感じるのだ。目的をもって、テーマに向かっていくことばは、ある意味では、そのテーマに縛られている。テーマに従属している。そのテーマから逸脱した瞬間にこそ、隠れていた無意識が動きだす。そう感じる。あ、いま、無意識が動きだした--その不思議な動きに、なぜか引きこまれてしまうのだ。

 けれど。
 次の部分を読むと、私は興醒めする。翻訳の問題なのだが、「日本語」になっていない。

 それともここでは突然、登場人物たちのサイズに目がすっかり慣れてしまっているというのに(だからこそ人形劇が終わったとき観客が最初に味わうのは、「自分はなんて大きくなってしまったんだろう!」という感覚なのだ)、一瞬その中に人形遣いの巨人のような手がぬっと現れた、ということなのだろうか。

 かっこのなかのことばは、説明文を挿入したものだろう。そういう部分は省略しても文章が通じなくてはいけないはずである。ところが、それを省略してみると、なんのことかわからなくなる。

それともここでは突然、登場人物たちのサイズに目がすっかり慣れてしまっているというのに、一瞬その中に人形遣いの巨人のような手がぬっと現れた、ということなのだろうか。

 突然「人形遣い」ということばが出てきて、比喩が比喩として成立しなくなる。ロシア語の原文を読んでいないのにこういう批判をするのは変かもしれないが、訳がおかしいのだ。訳し方が変なのだ。
 前後の文から考えると……。

 「震える」という形容詞があまり気に入らないのは、なぜだろう。「震える」ということばが、人形劇を見ていたとき、ふいに人形を動かしている手を見てしまったような感じ、人形を支配している手を見てしまったときに感じる違和感に通じるものをもっているからだ。「震える」ということばだけが、ボタンやボール(詩のなかの登場人物--いわばそれは人形劇の登場人物)の「大きさ」ではなく、それを動かしている「人間」(人形遣い)の手の大きさに似ているからだ。人形劇が終わったとき観客は「自分はなんて大きくなってしまったんだろう!」と最初に感じるが、その、自分が大きくなってしまったという感じに通じるものが「震える」ということばのなかにあるからだ、ということをナボコフは書こうとしている。
 ことばのもっていることば自身のサイズ--それについて書こうとしている。
 「震える」は「震える」なのだが、それはうまくいえない「震える」なのだ。たのことばとバランスを欠いている「震える」なのだ。いまは「震える」としかいえないけれど、そしてそれは「震える」には違いないのだけれど、もっと別な形で、書かれなければならない「震える」なのだ。人形劇の人形のサイズにして書かなければならないことばなのである。
 わかっているのに、そう書けないもどかしさ。
 それをナボコフはここで書こうとしている。
 そして、この感覚を訳文は捕らえきっているとは思えないのだけれど、それはたぶん「だからこそ……なのだ」という構文と、その文章の挿入のしかたに問題があるのだと思う。特に「だからこそ……なのだ」という構文に問題があるのだと思う。それはきのう読んだ部分の「陣取っていたのに」の「……のに」という構文とも通い合う。
 ナボコフの書いている「理由(原因?)」というか、ものごとの因果関係を説明することばは、きっと「日本語」に合わないのだ。たしかに文法的には、そこにつかわれていることばは「理由」や「原因」を導くことばなのだろうけれど、その「理由」や「原因」のとらえ方は常識とは違うのだ。
 人間には人間の因果関係がある。ものにはものの因果関係がある。人形劇には人形劇の因果関係がある。ものの因果関係に人間の因果関係をまぜてしまってはだめなのだ。人形劇の運動(因果関係)に人間の運動(因果関係--操作している手順)をまぜてはいけないのだ。そういうものが混じったとき、ナボコフは「気に入らない」と感じているのに、訳文は、それを混ぜてしまっている。
 私には、そう感じられる。
 だから、せっかくの、美しい美しい美しい文章、

「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。

 が、まったく目立たなくなる。段落のはじめに書かれているのに、存在感をなくしてしまう。--ああ、悔しいなあ、と感じるのだ。もっと違う訳があるはずなのに、ナボコフが日本人ならもっと違う訳になるはずなのに、と思ってしまうのだ。



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ウラジーミル ナボコフ
平凡社