高澤静香『永遠のコドモ会』には「ことば遊び」のような詩がある。「ひとりあそびうた」。
中州
とよんで
とりがきた
ささ ささら
とりがきたなら
いちにち
きとにち
とり
とよんで
かぜがきた
きら きらら
かぜがきたなら
いちにち
きちにち
はな まいて
こだま
かぜ よんで
あきづ
みず
みず
みず ばかり
「ことばあそび」といっても、たとえば谷川俊太郎の詩のように、え、どこまで行ってしまうの?というようなはじける感じがない。何か、奇妙な「重し」のようなものがある。「中州/とよんで/とりがきた」の2行目は「と呼んで」であろうか。3連目も「とり/と呼んで/かぜがきた」かもしれない。何かを呼ぶ、そうするとそのことばに誘われて何かがくる。それは呼ぶときの「ことば」そのものではない。それでも、そこに何か不思議なやすらぎがある。ことばの力にふれるときの、頼りになる感じがある--その安心感が、もしかすると「重し」かもしれない。どこまでもどこまでも、自由に飛んで行く「ことばあそび」とは違う世界を高澤は生きているのだろう。
「聲」という詩がある。
もう九時をまわっているというのに
おもてからコドモの聲がする
こんなかたちに成りました
こんなかたちに成ったのだな
こんなかたちに成りましたよ
互いに確かめ合い
触り合い
笑い合っているのだ
夜だけ流れる川
その浅瀬のなかのあちこちに
中途半端な足跡ばかり残る
いまは 戸棚のほうが
あかるかったりするから
淋しくないねと聲を仕舞うひともいる
「ひとりあそびうた」のとき、私は「ことば」という表現をつかったが、それは「聲」と言い換えた方がいいかもしれない。
「こえ」。私は普通に「声」と書くが、高澤は「聲」と書いている。「声」と「聲」がどう違うのか、私は知らないが、「声」になくて「聲」にあるものがある。「耳」。ことばを口で発音して、耳で聞く。そのとき「聲」が明確になるということかもしれない。口から耳へ。そのあいだの、「間」。そこで、もしかしたら、ことばは少し変わってしまうのかもしれない。口で言おうとしたことが耳に届くあいだに、何か変わってしまう。
もし、自分の言ったことが相手につたわらないとしたら、それは自分の口から出たことばが相手の耳に届くまでのあいだに、微妙にかわってしまったのかもしれない。
だからこそ、「こんなかたちに成りました/こんなかたちに成ったのだな/こんなかたちに成りましたよ」と「互いに確かめ合」わなければならないのかもしれない。確かめ合って、その微妙な変化、あるいは思いがけない変化を楽しむ、笑って受け入れる--それは、意外とおもしろいものかもしれない。ゆたかな暮らしかもしれない。
「中州/とよんで/とりがきた」。中州と呼んで(とことばにして)鳥がきた。「とり/とよんで/かぜがきた」。鳥と呼んで風がきた。それは「返事」なのかもしれない。誰からの返事であるかわからないが、たしかに返事なのだろう。返事がかえってくるというのはよろこばしいことだ。一日は、そうやって「吉日」になる。
自分の思い通りではなくても、それを受け入れる。そして、「聲」を仕舞う。それは「口」を仕舞うのかな? 「耳」を仕舞うのかな? 「ことば」を仕舞って「もの」になる。「人間」そのものになる。無言でも、いま、ここに、こうしている--ということを、静かに実感する。そういうことをたしかに感じる力が高澤のことばを動かしているのかもしれない。
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