ナボコフ『賜物』(3) | 詩はどこにあるか

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ナボコフ『賜物』(3)

色とりどりの歩道を備えているこの通りは、ほとんど気づかないくらいの上り坂になっていて、まるで書簡体小説のように郵便局で始まり、教会で終わっていた。
                                (9ページ)

 「書簡体小説」が郵便局で始まり、教会で終わるというのは、手紙を書き、投函するところから始まり、ひとりに死んでしまう(教会での葬儀)ことで終わるということなのかもしれない。皮肉っぽい見方であるけれど、小説のなかで町を描写するのに、その比喩に小説をつかう--この二重構造への偏執的な(?)好みは、ナボコフの特徴かもしれない。
 小説はあることがらをことばで描写することで成り立っているが、ナボコフはそのことばをもう一度ことばで描写するのである。ことばがことばを呼び寄せ、増殖し、動いていく。そしてそのときことばは、どうしても最初の目的(この場合、町の描写)を逸脱していく。
 町ではなく、「まるで書簡体小説のように郵便局で始まり、教会で終わっていた。」という意識をもっている人間の内面、そういうことばを瞬間的に要求してしまう人間の精神の運動、感覚の運動への暴走してゆく。

例えば、口のなかにすぐさま不愉快なオートミールか、さもなければハルヴァの味を呼び起こすような建物、(……以下略)
                                (9ページ)

 町の描写と同様に、この「肉体感覚」、人間の内面こそ、ナボコフはことばで暴走させたいのだ。



透明な対象 (文学の冒険シリーズ)
ウラジーミル ナボコフ
国書刊行会

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