林嗣夫「石灰」 | 詩はどこにあるか

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林嗣夫「石灰」(「兆」147 、2010年08月05日発行)

 「頭」とか「肉体」とか「思想」とか……ちょっと面倒なことを書いているうちに思い出した詩がある。感想を書こうと思いながら、そのままになっていた作品である。
 林嗣夫「石灰」。

林檎畑や麦畑で
若い男女がデートする話はあるが
わたしは
まだ何も植えていない春の畑で
女性の肌に触れてしまった

これから植えつけるカボチャやナスや
トマトのことなど思い描きながら
畑を耕し
畝を作り
石灰をまこうとしたとき

その石灰の袋に右手を突っ込んだとき
触れたのは
女性の肌!
つかんだのはやわらかい女性のからだ!
思わず手を引いてしまった

おそるおそる
石灰の袋に手を入れる
なんというなめらかな存在だろう
つかみ直しても指から流れ去っていく軽やかさ
さらに押さえると物質の重い密度
空(くう)であり 色(しき)であるもの

(こんなところで
袋を手に入れたまましゃがんでいていいのだろうか)

 これは冷静に読めば、石灰の袋に手を入れて、石灰をつかんだときの感触が女性の肌を思い起こさせた、ということなのだろうけれど、私は最初、林が畑を耕しているうちに女がそっとやってきて、林が石灰をまこうとする瞬間に石灰の袋のなかに手を入れて、そこで手をとりあったのだと思ってしまった。
 あ、いいなあ、そんな突然のデート。それも女の方から近づいてきて、石灰の袋のなかに手を入れて、誰も見えないところで手をとりあうなんて……。まあ、そんなことをすれば、とりあった手は見えないだろうけれど、あのふたり畑の真ん中で何をやっているんだ?という噂にはなるかもしれないなあ。
 そういう危険って、うれしくない?
 あ、林さん、すごいじゃないか。おおもてだねえ。うらやましいねえ。わざと変な噂を立てられるようなことを女からされるなんて。
 でも、私の読み方は間違っているよね。
 ほんとうは、袋のなかで石灰に触れたら、それが女の肌を思い起こさせた。すべすべで、逃げていくような感触……。そのことを書いているのだろう。
 それでも、そう読み直してもなお、私は女の手を感じてしまうし、手だけではなく乳房だとか、もっとあやしい部分につながっていく肌に直接触れているような、どぎまぎした感じに襲われる。私は林ではないから実際には女の肌には触れていないのだけれど--いや、実際には林自身が女の肌には触れていないので、逆に、私自身が女の肌に触れているような、秘密で何かをしているような感じになってしまったのである。
 このとき、林が感じたことはもとより、私の感じたことは、まったく非現実的なこと、ありえないことだよね。間違いだよね。
 でも、この間違いのなかに、私はほんとうがあると思っている。実際に、女の肌に触れているのだ。女は石灰の袋に手を入れていない。入れていないけれど、石灰の袋に手を入れると、そこに女の手があらわれる。手を入れない限り、女の肌は石灰の袋のなかには存在しないのだけれど、手を入れた瞬間、そして指を動かした瞬間、そこに女の肌があらわれてくる。女はそこにいる。
 でたらめ? 妄想?
 ああ、でも、指がはっきり感じてしまう。それは実際の女の肌に触れたとき以上に、指にはっきりと甦る。いや、これは甦るのじゃないなあ。指が、林の指が、女の肌を生み出すのだ。林の指のなかから女の肌が生まれ、それが林に逆襲するようにからみついてくる。
 この逆襲があるから、林は「思わず手を引いてしまった」。けれど、その逆襲をもっともっと確かめたくて、また手を入れてしまう。
 手が触れる女の肌、手が生み出した女の肌。それは「空」である。けれど、手のなかの感触、実感、そこに「色」がある。
 空則是色。色即是空。
 区別がつかない。
 この感じが、とてもいい。あ、これこそ「肉体」であり、「思想」だなあ、と思うのである。

(こんなところで
袋を手に入れたまましゃがんでいていいのだろうか)

 もちろん、いけません。そんな危険な遊びをしてはいけません。でも、してはいけないことをするのが人間の楽しみなんですよね。林さん。
 私は突然、石灰を買って、どこかの畑へ行って、石灰の袋を破って、そのなかにいる女と秘密のセックスをしたくなった。林になってしまった。わあああ、危ない、危ない、危ない。

 ということで、長い間、その詩をほうりだしておいたのだが、やっぱり書いておかなければと急に思ったのだ。



風―林嗣夫自選詩集
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