青木はるみは、かなり不思議な「気持ち悪さ」を持った詩人である。「肉体」と「頭」の関係が、私には気持ち悪いのである。
「秋の話法」という詩。
膝に来る猫は内臓の手ざわりがする
と 女がいった
(ぐにゃり)
鋭い瞳をごらんなさいよ もっと
精神性の高いものなの猫は
と 別の女がいった
物質系のエネルギーのうち
系全体としての位置エネルギー および
運動エネルギーを除いた残余
辞書の 内部エネルギーの項を読んで私は
(ぐにゃり)
ついでに思い出したが
内部環境とは体液のことを指すらしい
きょう私は左手を包帯で巻いている
うつくしい生徒のF君は
はるみさんは痛いのかな と つぶやいた
すると
ススキの穂のように形骸(けいがい)化したはずの 私の
消化呼吸系 泌尿生殖系 内分泌系を
いちどきに秋雨前線が通過したのだ
「猫は内臓の手ざわりがする」「ぐにゃり」は、実際に肉体が世界と接触したときに、肉体の内部(これを私は「肉体」と呼んでいる)で動くことばである。そこではいつでも「間違い」がまじりこむ。「歪み」がまじりこむ。「ぐにゃり」と書かれていることばは、あるひとにとっては「くにゃり」かもしれない。別のひとには「へにゃり」かもしれない。そういう差異は小さいとも言えるし、大きいとも言える。ようするに「基準」がない。それしかない。
他方、「物質系エネルギー」「位置エネルギー」は、肉体が接触することのできない世界であり、「頭」が世界を理解するためにつくりだした仮説である。そういう仮説は人間の肉体とは離れた場で、人間の肉体とは離れた「もの」の運動のなかで実証される。物理である。物理というときの「理」は「頭」と同じことである。
「精神」というのは、いくらか、この物理に似ている。「頭」の「仮説」である。「精神」は「人間」に属するものだろうけれど、人間から離れることもできる。「神」を考えるといちばんわかりやすいだろう。そして、この「精神」には妙なことに「基準」がある。「精神性の高いものなの」ということばが出てくるが、そこには「高い」「低い」というよな判断が働く。つまり「基準」がある。この「基準」に異論があるのは、物理の世界でさまざまな「単位」があるのと同じである。
青木は、この三つを、ごっちゃにして受け入れる。「考える」というよりも、私には、どうも、「受け入れる」という感じがする。つまり、全部を「肉体」のしてしまおうとする強引さがある。
その結果として、2連目の
(ぐにゃり)
ということが起きる。(ぐにゃり)そのものになる。
そのとき、「頭」とか「精神」はどうなっているかというと、どうにもならない。そのまま、併存している。変化(変形)せずに、そのまま、青木の「肉体」とともにある。
青木のことばのなかから、この不思議な併存をあらわすことばを探し出すならば、それは、
ついでに思い出したのだが
の、「ついでに」である。「頭」と「精神」は「肉体」の「ついでに」そこに存在するのである。特別の理由があってそこに存在するのではなく、「肉体」があるから「ついでに」そこにあり、そういう状態を青木は当然と思っている。
おばさんが(青木の詩を読むと、私は、どうしても「おばさん」を思い出すのだ。それは、一種差別的な意味での「おばさん」なのだが……)、ケーキを食べながら、「ついでに」まんじゅうも食べ、さらについでに酒だってのんでしまうという感じの「ついでに」に似ている。どうせ胃袋のなかでいっしょになるのだから「ついでに」食べて、のんで、何が悪い? いや、悪くはありませんけどねえ……。
そして、この「ついでに」をまた別のことばで言えば、
いちどきに秋雨前線が通過したのだ
の「いちどきに」なのである。
そうなのだ。
青木は、「おばさん」が「ついでに」と言ってしまうことを、即座に、彼女自身で「いちどきに」と言いなおすことで、青木の世界を正当化(?)してしまう。
「肉体」が存在するとき、「ついでに」「頭」「精神」があるのではありません。「肉体」が存在するとき、その瞬間に「いちどきに」、「頭」と「精神」も存在する。それは「ばらばら」ではなく、それを「受けれ入れる」青木という存在によって、そこに集まっている。独立していても、青木によって、そこに集められているのである。
ずーっと?
いや、青木は、ずーっととは言わない。「いちどきに秋雨前線が通過したのだ」という行の「通過」がいちばん適切なことばだろう。
「肉体」「頭」「精神」が、ある瞬間に、この世界を「通過」する。その瞬間を、青木はつかみとる。そしてそれをたとえば「秋雨前線」という「比喩」にしてしまう。
この最後の比喩は気持ちがいいけれど、それまでの「ついでに」と「いちどきに」の関係が、私には「気持ち悪い」。手ごわい。あ、一度も会ったことがなくてよかった、と思ってしまうのだ。(失礼)
*
猪谷美知子「もう戻る術はないのに」。活けいてた水仙が枯れたのでゴミ箱に捨てたときのことを書いている。
水仙はゴミ箱からはみ出しそうなくらいに
丈の長い花である
蓋を開けると
枯れた花と先が黄色くなった葉が
斜めになって散乱している
しかし
枯れたときの花びらは生ゴミの水分を吸ってか
先ほどよりも柔らかくなっていた
あ、ここがおもしろいなあ。「枯れたときの花びらは生ゴミの水分を吸ってか」は「か」という疑問(仮定)が明らかにするように、猪谷が想像したことである。いわば、「頭」の世界である。次の「先ほどよりも柔らかくなっていた」も実際に手で触れて「柔らかさ」を確認したわけではないだろう。想像したこと、「頭」の世界のことだろう。
ただし、この想像、「頭」の世界は、「頭」で完結する「頭」ではない。
「柔らかくなったいた」を猪谷は、どうやって知ったのか。「眼」でみて、その様子から触覚の体験をさかのぼり、「柔らかさ」をつかみとっている。花が「水分を吸う」というのも「頭」の世界だけではなく、実際に花を活けて、水が減るのを見てきた経験をくぐりぬけている。そこには書かれていないが「眼」という「肉体」がしっかりと存在している。
ここに書かれている「頭」(想像)は、私のことばで言えば「肉体となった頭」(肉頭、あるいは肉・頭)である。「肉体となった頭」の特徴は、その世界では感覚が融合することである。この詩では、肉眼(視覚)と手(触覚)が融合して「柔らかく」をつかみ取っている。
こういうことば(こういう行)を、私は「思想」と呼んでいる。
海北康「森の牝鹿」の書き出しもおもしろい。
お前は最初
その舌に
霧雨と濡れた森の
苔と大地の匂いを
私に与えてくれた
海北は鹿の舌の匂いを直接嗅いで確かめたわけではないだろう。見て、その色や動きから、いま、そこには存在しない「におい」を感じたのである。視覚と嗅覚が融合している。こういうときの想像力は「頭」と違って、そこでは完結しない。どうしても、その先へ動いていくしかない。だから、詩は、そのあと、延々と動いていく。ことばがつづく。
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