佐伯多美子「いつまでもいつまでもおどりつづける地」 | 詩はどこにあるか

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佐伯多美子「いつまでもいつまでもおどりつづける地」(「すぴんくす」11、2010年09月20日発行)

 秋亜綺羅の書く「切断」とは違った「切断」を、急に思い出した。佐伯多美子「いつまでもいつまでもおどりつづける地」が書いているのは、やはり「論理」というか、「精神」、あるいは「想像力」に関したことがらだが、秋亜綺羅とはまた違ったことばの動きである。運動である。

マイケルは えいえんに六十歳にならない。
コトバが そのままえいえんでありえない確率に等しい。

 この「マイケル」は六十歳にならずに死んでしまったマイケル・ジャクソンのことである。死んでしまったのだからもちろん六十歳になることはない。そのことが「コトバが そのままえいえんでありえない確率に等しい。」と佐伯は書く。
 ことばは、「えいえん」ではない--そういうときの「えいえん」の定義はどういうものだろうか。「永遠」にたどりつけない、マイケルが六十歳になれないように、ことばは「永遠」には到達できないというとき、とてもおもしろいのは、「永遠」が存在すると想定されていることである。「永遠」はある。けれど、それにことばはたどりつけない。
 それは、それでいいのだけれど。認識として、あるいは想像として、そういうことを仮定するのは別に問題がないのだけれど。
 でも、その「永遠」(佐伯はひらがなで書いているのだけれど--ひらがなで書くことで、普通にいう「永遠」とは違うということを強調しているのだけれど、私はふつうの「永遠」から逆に佐伯のことばを追いかけてみたいので、あえて漢字で書いておく)--その「永遠」という存在を、佐伯は何によって認識するのだろう。定義するのだろう。
 「永遠」はある。そして、その「永遠」にことばがたどりつけないなら、ことばが「永遠」と合致できないのだとしたら(「えいえんでありえない」の「ある」を、私は「合致」と読んでいる)、ことばは「永遠」を定義できない。ことばでは語れない。
 最初から、何かが矛盾している。そして、この矛盾は、対立というよりも、ぶつかることができない矛盾である。切断されているというより、離されている。「分離」である。
 マイケルが「六十歳」と「分離」されており、絶対に、その「想像力」(ことば?)では書くことができるものに「接続」できないように、ことばが「永遠」から「分離」しているだとしたら、ことばが「そのままでえいえんでありえない」ということが、たとえ真理であっても、何かを考えることの起点にはなりえない。無意味である。
 佐伯は、なにやら、とてもややこしいところから出発しているのである。

(「言葉は肉体から出ている」と演劇人が呼吸をするように言う
(肉体が (言葉を超えると?
(そのとき (コトバは?

老いない伝説は
過去の伝説になるか未来の伝説になるか
(すくなくとも 現在は存在しない という

(現在が不在とうい
(喪失感
(この空洞は

 「永遠」から「分離」されてしまったことば。それは秋亜綺羅のことばが「過去」(意味という構造、その無意識の歴史)を切断し、「現在」のなかに「肉体」だけをほうりだすのとは逆に、「現在」を見出すことができずに、そこにほうりだされている。
 佐伯のことばは、ことばでは書けないけれど「永遠」を知っている。ことばでは書けないので、佐伯は「永遠」という文字ではなく、「えいえん」という「音」を、いま、便宜上書いているだけなのである。そして、このことば(文字)として書けないことを「現在の不在」、「喪失感」と呼んでいる。「永遠」はある、ということを「現在」において、つまり、いま認識する。しかし、その認識はそれこそ永遠に、「永遠」とは結びつかない。つながらない。つながらないことだけが、「現在」から書くことのできることがらである。佐伯は「つながる・つながらない」ということばは書いていないが、この「つながり」の「不在」が「喪失」であり、「空洞」である。

 こんなことを延々と書いていると、何がなんだかわからなくなってしまう。言いなおそう。もっと簡単に断定してしまおう。
 秋亜綺羅のことばは人を「過去」から切り離し、現在のなかにほうりだし、そこからもう一度、肉体でことばを動かせ、と迫る。
 佐伯はそうではなく、永遠(これを「未来」と考えるとわかりやすい--マイケルのたどりつけない「未来」としての六十歳のようなものと考えるとわかりやすいかもしれない)からことばが切り離されているのだから、そのことばにとっては「現在」が存在しないことになる。「現在」はあくまで、「未来」とつながり、未来へ向かうことができるからこそ現在なのである。「未来」を失って、どうやって「現在」を生きることができる。「未来」を失えば「現在」は不在である。肉体は、その「空洞」のなかにほうりだされている。
 秋亜綺羅は、未来をそんなふうには考えない。ことばを縛りつける「過去」を切り捨てる。そうすると、そこには「過去」からの延長ではとらえることのできない「時間」、ほんとうの「未来」、「自由」が出現する。それを手に入れろ、と肉体を励ますのである。
 「空洞」「不在」のなかにほうりだされた「肉体」はどう生きることができるか。佐伯の向き合っているのは、そういう問題である。

狂気のおどり狂喜する(し )
視氏刺市志誌師次紙士史思指詞雌示子肢資歯至私梓仕嗣孜覗糸脂嗜摯賜
支使姿屍伺自施斯飼試茨四柿紫祇弛匙仔祀旨司始姉矢指此枝諮滓恣止翅

狂気の死
狂喜の詩

一分の狂いもなくおどりきる。
生ききる。

 「おどりきる」「生ききる」の「きる」。それは完遂するという意味の「きる」だが、それは「切る」という文字をあけることができる。そして、それは「つきる」「なくなる」という「意味」とも重複する。
 「不在」の「現在」、「空洞」としての「現在」。そのなかで、自己を「つかいきる」「つかいはたす」。残されている生き方(?)は、それしかない。「いのち」のあり方は、そういう燃焼といえばいいのか、消尽といえばいいのか、そういうものしかない。
 それは、どういうことなのか。実際には、どんなことなのか。
 ことばの例として、佐伯は「し」にいつくもの漢字を当てている。そこに書かれている「し」という文字が、すべての漢字であるかどうか私はしらないが、そんなふうにしてともかく自分がもっているものを、「いま」、ここで使い果たしてしまう。
 秋亜綺羅は「一回」で「過去」を切断するのだけれど、佐伯は果てし無く繰り返しながら「過去」を使い果たす。そうすると、過去がなくなり、「不在」の現在が「無」という形で「永遠」になるのかもしれない。

 「いま」につながる「過去」(知識)をつかいきる。そのとき「いま」に残されるのはなんだろう。「肉体」である。「過去」が使い果たされれば、「現在」というものもなくりる。「現在」を支える基盤がなくなる。宙ぶらりんの、一瞬の「とき」だけがあらわれる。それは、もしかすると「永遠」かもしれない。
 佐伯は、マイケルの生涯に、そういうまぼろしを見たのかもしれない。
 すべてを使い「きる」。そのとき、その「きる」という運動が「永遠」と交錯する。うーん。なにやら、バタイユを思い出してしまった。




果て
佐伯 多美子
思潮社

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