大谷典子『逆光名所』 | 詩はどこにあるか

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大谷典子『逆光名所』(編集工房ノア、2010年10月01日発行)

 大谷典子『逆光名所』の巻頭の「うどんの思い出」がとてもいい。

あなたが目の前にいるから
うどんが食べられない
緊張しているので
せいぜい一本か二本
おなかいっぱい?
と言って
わたしのうどんを続けて食べた
なんばシティのあのうどん屋はまだある

緑あかるい頃
こころは水分補給もなしで
脳もぴちぴち暴走しちゃう
うどんは今も大好き愛しています全身全霊

 「なんばシティ」というのは大阪だろうなあ。行ったことはないが、うどんを食べに行きたい。そういう気持ちになる。

脳もぴちぴち暴走しちゃう

 これを体験したい。それは、きっと「なんばシティ」の「あの」うどん屋、「まだ」あるうどん屋でないとだめなのだ。
 「あの」という肉体にからんで離れないもの、肉体になってしまっているうどん屋。肉体になってしまっているから「まだ」どころか、永遠にありつづけるのだ、きっと。
 「あの」うどん屋を思うたびに、肉体がもどってくる。肉体なのだけれど、肉体であることができない。図々しくも「脳」が肉体を乗っ取っている。「愛しています」という「こころ」も肉体を乗っ取っている。肉体は、うどんさえ食べられない。「全身全霊」ということばのなかに「身」がふくまれるけれど、そこには肉体はない。「全霊」が「全身」を乗っ取ってしまっているのが「全身全霊」である。
 そして、「頭」も「こころ」も「霊」も肉体を乗っ取ってしまうと、今度は、その抽象的なものが「肉体」になってしまう。肉体が「肉体」にかわる--と書くとなんのことかわからなくなるが……。まあ、爆発だ。ビックバンだね。強烈な光。それから無軌道な(?)拡散。「なんばシティ」には「あの」うどん屋以外は存在しない。端から端まで「あの」うどん屋である。

言ってやろうかすごく思い切って

ほんとは好きでたまりませんずっと好きですって
冗談ではないんです

 何があろうと、何が起きようと、「ずっと好きです」だけが生きつづける。それが「肉体」なのだから。それが「思想」なのだから。
 こんな強烈な「好き」に出会ってしまったら、その「好き」に感染してしまう。負けずに「なんばシティ」の「あの」うどん屋を好きにならないことには、生きている意味がない。そして、大谷が「好き」と言っている相手のことだって好きにならないことには生きている意味がない--なんて書いてしまうと、あれ? 何か間違えてしまったなあと思うけれど、そういう「間違い」へまで暴走してしまうなあ。他人のことばに感染するって、こういうことなんだなあ。

 「クレイジーバス」もとても気に入った。

バスに乗っていると喚(わめ)きそうになる
バスとは何か
バスは迂回する
なるべく迂回する
なるべく変わったところへも回る
できるだけ近道をしない
できるだけすぐ着かない
親切なようで意地が悪いのか
意地が悪いようで親切なのか

遠回りする

時間がかかる

バスとはそういうものだ
バスとはなかなか着かない
茶化すように大回りする
毎日する
毎日そうしているのか
ずっとそうしているのか
これからもそうするつもりか

 いいなあ。「毎日する/毎日そうしているのか/ずっとそうしているのか/これからもそうするつもりか」。もう、毎日そうしてください。ずっと、そうしてください。これからも、ずっとずっとずっと、同じことを詩に書いてください。ほかのことは書かないでね。
 「好き」というのは、好きか嫌いかわからない。両方なのだ。両方を行ったり来たり、迂回して、遠回りして、時間をかけて、矛盾して、そしてやっぱり「好き」しかないところへたどりつく。いや、たどりつけないから、たどりつこうとして「好き」が「全身全霊」になって、肉体を乗っ取っていく。
 この強いことばのスピードが好きだ。




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