谷合吉重『難波田』 | 詩はどこにあるか

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谷合吉重『難波田』(思潮社、2010年07月25日発行)

 谷合吉重『難波田』は、「難波田」と呼ばれる土地に限定して、そこで谷合が知ったことを書いている。起きたこと、見聞きしたこと、ではなく、「知った」ことを書いている。「知る」とは、それを自分の中に受け入れることである。受け入れなかったことは、「知らない」ことである。何があっても、「知らない」。そういう生き方がある。これは、そういう生き方をことばにした詩集である。
 何回か繰り返されることばがある。

書かれないことをやめない母に(31ページ)

書かれないことをやめない母から汗が滴る(35ページ)

未だ書かれることをやめない
母とパスポートを取りにゆく(39ページ)

 「書かれない」ということばとともにある「母」。そして、これは「母」が重要なのではない。重要ではない、というと少し違うのだけれど、重要なのは「書かれない」ということばである。
 世界にはいろいろなことがある。いろいろなことが起きる。そこには「書かれる」ものと「書かれない」ものがある。「書かれる」ものは知られ、「書かれないもの」は知られない。そして、「書かれる」ものより「書かれない」ものの方が圧倒的に多い。

 一方に「書かない」という選択肢があり、また一方に「書かれない」という選択肢もある。「書く」「書かない」ではなく、「書かれない」。
 それは「書かれる」「書かれない」という選択肢とは、ことばが同じであってもちがうあり方である。
 「書かない」ひとがいて、「書かれない」ひとがいる。それは、「母」ということばが象徴的だが血のようにつながっている。母を「書かない」谷合がいて、もう一方に「書かれない」母がいるのだ。谷合と母は切り離すことができない。たとえ母が死んでも、その「縁」は切れない。そういうものがある。
 谷合がこの詩集で書いているのは、そういう「縁」である。土地にまつわる「縁」--しかし「地縁」ではなく、ひととひととの「縁」。それがしみついたのが「土地」である。「土地」の内部が「縁」なのだ。
 その「縁」のなかへ、谷合は入っていく。
 そこで「母」が「書かれない」のは、谷合こそが「母」だからである。母を書かず、その周辺を書くことで、谷合は「母」になり、「母」になることで、「難波田」そのものになるとも言える。
 「書かれない」母が一方にいて、他方に「書かない」谷合がいて、「書かないこと」我母になること、難波田になること--というのは矛盾した言い方になるが、「書かない」ことによって、それは谷合の内部にとどまりつづけ、膨張し、やがて爆発する--その瞬間まで「存在」を抱え込むということ、抱え込みながら、その抱え込んだものによって肉体を乗っ取られること--そういう運動が、ここにある。

ゆきずりの子は
生母への怖れからか、
ほどかれた包帯のような
声を張り上げる。
(かあちゃん、ごめんなさい
 かあちゃん、ごめんなさい。) (07ページ)

 ここには「母」が出てきて「母ちゃん」も出てくるが、それでもここには「母」は「書かれていない」。どれだけ「母」が書かれても、「書かれていない」母というものが存在するということである。
 その「書かれない」母--書かれることのない母がすべてを引き寄せる。それが「難波田」である。書かれないものだけが、書かれるものに拮抗し、「土地」の内部を耕し、そたにたとえば花を咲かせるということだろう。そのとき花は、たしかに「象徴」になる。詩になる。
 「養父母を愛す」と書いた少女がからかわれ、入水自殺したと告げる断章のあとにおかれる次の断章。

時をおかずして
難波田城址の曲輪(くるわ)に
 白いユッカ蘭が咲いた
青白い光の下に
 きりきりきりと
   白いユッカ蘭が咲いた
葉は鋭く天を突き
 円錐花序を直立し、
  白いユッカ蘭が咲いた
(     /直立せよ
      /直立せよ
  円錐花序を直立せよ!)

 ここにある「書かれない」ことば、「書かれなかった」ことばとしての「空白」。その純粋さにつながるものとして、「書かれない・母」があるのだと思う。
 それが谷合の「難波田」なのだと思った。
            


難波田
谷合 吉重
思潮社

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