志賀直哉(13) | 詩はどこにあるか

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「蝕まれた友情」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 同じのものが、気持ちのあり方で違って見える。その違いを志賀直哉は明確にことばにする。「蝕まれた友情」の「二」の部分。( 197ページ)

待つてゐる人の乗つた汽車が遠くからプラットフォームに入つて来る時のあの感じは、不断、自分が乗る為に待つてゐる時の汽車とは別のもののやうな、堂々とした感じで乗込んで来るものだ。

 この印象の正確さ--それに驚くと同時に、それがとてもなつかしいような、つまりそれが志賀直哉の気持ちではなくまるで自分の気持ちのような気がしてしまうのは、「汽車が遠くからプラットフォームに入つて来る時のあの感じ」の「あの」からによる。
 「あの」。連体詞。はじめての感じではなく、いつか経験したことのある感じ。そしてそれは自分が知っているだけではなく、他人も知っているということがら。「あのことは、どうした?」というときの「あの」。その「あの」によって、読者の(私の)記憶のなかから、列車を見た記憶がよみがえってくる。それも誰かをホームで待っているときの記憶が。そして、志賀直哉の記憶と重なる。
 こういう感じを起こさせるもうひとつのことばは「遠くから」である。列車は、わざわざことわらなくても「遠くから」ホームにはいってくる。わざわざほ「遠くから」ということばが書かれているのは、それは「距離」ではなく「時間」をあらわすためなのだ。「遠くから」ホームまでの「距離」ではなく、「遠くから」ホームまでの「時間」。「入つて来る時」の「時」。
 何もせず、待っている。その待つという「時」のなかに、「あの」記憶が入ってくる。列車の動きにあわせて、感情が少しずつ、ことばになってくる。
 その動きが「別のもののやうな」と、いったん突き放され、「堂々とした感じ」でもういちど自分にぐいと近づく。自分のなかから「堂々とした」という印象が力強くあらわれてくる。

 志賀直哉は、ここでも、ことばを感情のリズムを再現するようにして動かしている。



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