監督 プーピ・アヴァーティ 出演 シルヴィオ・オルランド、フランチェスカ・ネリ、アルバ・ロルヴァケル
映画と芝居のいちばんの違いは何か。視線の表現の仕方が違う。
芝居は強いライトの下でかっと見開いた目の力で観客をひきつける。その目は観客を引きつけるまで開いたまま、強い光を発しなければならない。(強いライトを直視し、目の光を反射させなければならない。)
映画も、また目の強い力で観客を引きつけることもあるけれど、芝居にはできない目の演技というものもある。小さな動き。沈んだ目の色の動き。--これは、芝居では、観客には見えない。目の小さな動きや、沈んだ色を見せるためには「肉体」全体をつかわなければならない。映画では、カメラが動いてくれる。目をアップでとらえてくれる。強い目の力も魅力的だが、映画では、暗く揺れ動く目の動き、視線のニュアンスが、観客をひきつける。こころの揺らぎがあらわれる目に吸い込まれるようにして、映画の中にはいっていくことがある。
この映画では、母親と隣の男の視線のやりとりが、小さいけれど強い光を発する。観客は(私は)、まず、この光に引きつけられる。あ、この女と男は「できている」、不倫関係にある、とすぐわかる。女(母親)が美しくて、表情がエロチックである。隣の男も、夫(主人公)よりはるかにいい男である。母親のようないい女が、なぜチビでさえない男といっしょにいて、しかも夫と隣の男が親友なのはどうしてなのか--これは変、ということが、すぐにわかる。母親と隣の男の視線のやりとり、視線の会話で。これは、映画にできて、芝居にはできない表現である。
この二人の視線の動きとは違って、夫の視線は、暗く揺れている。母の美しさに比べると自分は劣っている--そう思い、苦しんでいる娘の苦しみを受け止め、反応するゆらぎ。ゆらぐ視線。その視線のまま、他人の間を行き来する。自己主張というより、他人との「調整」のために、行き来する視線である。
父親は、娘の情緒不安定がどこから来ているか、うすうす知っている。いや、確信している。母親の不倫である。だが、それを父親は隠そうとする。娘に「恋人」をつくり、(学生を娘の「恋人」に仕立て)、娘の気をまぎらわそうとする。娘に「自信」をもたせようとする。それが、この映画の物語の不幸の始まり、ストーリーの始まりなのだが……。
父親は、妻(母)と隣の男(親友)との「不倫」を周囲に隠せている、と思っている。だれも知らない、と思っている。もちろん娘も知らないと思っている。ところが、娘が殺人事件を起こし、精神鑑定の結果、施設に収容される。そして、そこで娘の診断にあたった医師から「娘さんの情緒不安定の理由は、母親の不倫である」と告げられる。思春期の少女はそういうことに敏感である、と告げられる。父親が必死になって隠そうとしていたもの--それは、だれにでも露顕していたことなのだ。実際に母と隣の男を見ていない医者にさえ、娘をとおしてわかってしまうほどのものなのだ。
隠せないのだ。
父親が(夫が)どんなに視線の奥にこころを隠し、娘への愛情をあふれさせようとも、そのあふれる愛で、他人の視線は隠せない。母親の視線の動き、それにこたえる隣の男の視線。それは隠せはしない。
娘は父親の視線のベールでつつまれた世界を生きるわけではない。娘はボーイフレンドの視線を見る。それからボーイフレンドのほんとうの恋人の視線を見る。ないがしろにされている自分を感じる。母親の視線が夫をないがしろにし、隣の男を熱く見ているように、ボーイフレンドは自分をないがしろにし、自分の友達に熱い視線を注いでいるのを、強く強く感じる。そして、そのことに耐えられずに事件を起こしてしまう。
敏感な父親(この敏感さを娘は引き継いでいる)は娘の変化に敏感である。事件が起きたときも、すぐに娘が事件に関係していることを察知してしまう。だからこそ、そこに「精液」が出てきたとき、娘ではない--と必死になって「錯覚」しようとつとめたりする。 普通の父親なら、事件を知り(事件の真実を知り)、うろたえるが、この映画の主人公の父親はうろたえない。何もかも知っているからである。
父親が真実を隠している。真実を隠す視線で、娘を守ろうとし、そのことが逆に娘を傷つける。傷つけてしまった。--そのことに父親が気づき、また、娘も「事実」を受け入れようと決意する。そのことで、この映画は、この家族は立ち直る。その過程を、この映画は視線で描いていく。
ラスト近く、娘が殺害した少女の母を訪ねるシーン。映画館で母を見つけ、近づいていくシーン。そのときの、娘のさっぱりした視線。「事実」を見つめ、「事実」と和解していくときの、視線はとても美しい。被害者の母は「事実」と向き合う少女を受け入れないが、娘の母は「事実」と向き合った娘を受け入れる。そして、い和解する。ことばではなく、視線で。この対比も、美しい。
シルヴィオ・オルランドの演技はすばらしいし、他の共演者も彼の演技にひっぱられるように、視線が充実している。「瞳の奥の秘密」と大きく、パッションに満ちた視線が交錯したが、この映画は、逃げまどう視線が、逃げることをやめ、立ち直る視線の明るさを描いている。
