誰も書かなかった西脇順三郎(140 ) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「失われたとき」のつづき。
 行の「渡り」は西脇の詩では頻繁に起きる。

ああ無限の淋しさはつまらないもの
からほとばしり出るのだ

 この2行は、そういう「渡り」のなかでも、とてもおもしろい。「ああ無限の淋しさはつまらないもの」は1行として完全に独立している。「無限の淋しさ」を定義して「つまらないもの」と言っているように見える。そう読んでしまう。
 読者に、そう読ませておいて、それを次の行でひっくりかえす。
 「無限の淋しさはつまらないもの(ではなく/無限の淋しさはつまらないもの)からほとばしり出るのだ」、あるいは「無限の淋しさはつまらないもの(ではなく/つまらないもの)から(無限の淋しさは)ほとばしり出るのだ」。「つまらないもの」からほとばしり出たものが「無限の淋しさ」である。
 「無限の淋しさ」は「つまらないもの」という定義は否定され、「つまらないもの」から「ほとばしり出たもの」が「無限の淋しさ」である。
 このとき「つまらないもの」は、否定されているのだが、同時に肯定されてもいる。「つまらないもの」がないと「無限の淋しさ」は存在しえない。それは「無限の淋しさ」を生み出す「母胎」であるのだから。
 「つまらないもの」は否定されながら、肯定されている。
 否定と肯定が、「渡り」の一瞬の間に交錯する。「渡り」のなかに、「矛盾」があり、その「矛盾」は、東洋思想でいう「無」であるように見える。(「無」は「ではなく」の「なく」のなかにある。)「混沌」であるように見える。そこには何もないのではなく、まだ「形式」がないだけであり、エネルギーは満ちあふれている。「矛盾」したものが満ちあふれ、形になりきれていないが、ある何かの「作用」があれば、それは新しい形に結晶化する--そういう「場」としての「無」。
 「渡り」は「無」という「場」なのだ。「場」としての「無」なのだ。
 「無限の淋しさ」は「つまらないもの」ではなく、「つまらないもの」から「ほとばしり出たもの」。つまり、それは「ほとばしり出る」という運動であり、その運動の「場」が「渡り」なのだ。

 「つまらないもの」は否定されながら、肯定されている。--と書いたが、そうなのか。そうではなく、「つまらないもの」とそこから「ほとばしり出たもの」は「無限の淋しさ」のなかで、結合している。「ほとばしり出る」というのは、存在の内部と外部を直結する運動であり、その運動のなかで「つまらないもの」と「つまらなくないもの(無限の淋しさ)」は区別がない。同等である。
 この「矛盾」が「無」という「場」。
 詩をつづけて読んでいけばわかる。どれが「つまらないもの」なのか、そして、どれが「つまらないものからほとばしり出た」もの、つまり「無限の淋しさ」として肯定されたものなのか、区別がつかない。

詩人は葡萄畑へ出かけて
こい葡萄酒をただでのむだろう
クレーの夜の庭で満月をみながら
美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを
たかむけてシェリー酒をのんでいる
ああ無限の淋しさはつまらないもの
からほとばしり出るのだ
お寺の庭の池のそばにはもう
クコの実が真赤になつてぶらさがる
ダンテの翻訳者はクコ酒をつくる季節だ
ドイツ語の先生はクレーの金魚のために
アカボウをさがしに夜明け前に出かける
小川の下流を占領するため早く行くのだ
そして財布をおとす季節でもある

 この激しい運動、軽快な運動--それは「絵画」ではなく、「音楽」の運動である。


西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

慶應義塾大学出版会

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