安部壽子『古典の時間』の「キネズミ」の書き出し、
キネズミのいるところ
静かなものと
ふたつでいたい
湿った庭にはエンレイソウ
イヌのいないイヌ小屋をのぞき
あなたは小さなあくびをするだろう
私は「ふたつ」ということばにつまずく。私なら「ふたり」と書いてしまうだろう。けれど安部は「ふたつ」と書く。そのとき「私(安部)」は「人間」ではなく、何か、「もの」になる。
それが、不思議。
そして、その「もの」が、「いのち」とは無縁の「もの」ではなく、何かしら「いのち」と関係しているように感じられる。「もののいのち」と「私のいのち」。その「ふたつ」ということかもしれない。
なぜ、こんなふうに感じてしまうかというと、「イヌのいないイヌ小屋をのぞき」という1行のなかに「時間」があるからだ。
「イヌがいない」は、かつて「イヌがいた」時間があって、いま、「イヌがいない」のだ。そこには「時間」というものがある。イヌ小屋のなかに。
そういう「時間」がキネズミと「私(安部)」の間にも入り込んでくる。キネズミと「私(安部)」の間には、何の関係もないかもしれない。「エンレイソウ(延齢草)」と「私(安部)」の間にも何の関係もないかもしれない。けれども、あるかもしれない。かつてイヌ小屋にイヌがいたように、あるとき「私(安部)」はキネズミだったかもしれない。エンレイソウだったかもしれない。そして、あるときキネズミかもしれない。エンレイソウであるかもしれない。
輪廻--と書いてしまうと違ってしまうかもしれないけれど。
キネズミと「私(安部)」の間の「時間」が果てしなく遠いものだったらどうだろう。もうキネズミがキネズミであることを主張せず、「私」が「私」であると主張しないような、時間--静かな時間にたどりついたとしたら、そのときキネズミと「私(安部)」は「ふたつ」になれるかもしれない。
この「ふたつ」は、しかし、とても不思議だ。
「ふたつ」は「ふたつ」でありながら、「ひとつ」の「時間」を感じさせる。長い長い時間。長い長い時間なのだけれど「長い」という印象ではなく、「ひとつ」という感じの時間--私は、たぶん、とても奇妙なことを書いているのだが……。
その「ひとつ」の時間というのは、「イヌがいない」と「イヌがいた」という時を分け、同時に結びつける力である。
あらゆる「ひとつ」が、AとBを分け、同時にAとBを結びつけるのかもしれない。
「イヌがいない」と「イヌがいた」という時を分け、同時に結びつける力は、キネズミと「私(安部)を、そして「エンレイソウ」と「私(安部)」を分断し、同時に結びつける。
そして、それは「静かな」なかでおこなわれる。あらゆる運動が停止した「時」のなかでおきる。「永遠」のなかでおきる。
「永遠」は安部にとって、完璧な「静かさ」なのではないだろうか。
そんなことは、どこにも書いてない--かもしれない。けれど、私は感じてしまうのだ。「静かなものと/ふたつでいたい」という行、「ふたつ」ということばを見つめていると、そんなことを感じてしまうのだ。
そうして
縄文の地で朝をむかえる
静かなものたちのために 裏山のクリ林の
実をこぼす
ふたりのためには火を熾す
古い川に流れつくサケの群れは
澱んで川下に浮かぶ 地層の底に沈むもの
古い眠りを 眠れ
ふえてくるもののためには
ドングリの ヒマワリの
実をかざす
とぼしい煮炊きで 日暮れては
帰る鳥たちを待つだろう
墓のない地で
ふたつの生を分けあって
ひとつの死をみとどけるために
最後にでてくる「ふたつ」と「ひとつ」。「ふたつ」を「ふたつ」に分かつのは時間であり、その分けられた「ふたつ」は「死」のなかで「ひとつ」になるのだが、そのとき「死」は「再生」と同じである。そこになっかたもの、「ひとつ」が「ふたつ」から生まれてくるからである。
「ふたつ」から「ひとつ」が生まれる--というのは、矛盾だが、だから、それが詩である。「ふたつ」はうるさく、「ひとつ」は「静か」である。うるささから「静かさ」が生まれるというのも矛盾である。だから、それを詩と呼ぶしかない。
