犬飼愛生「牛の子ではない」、高田太郎「河骨川」 | 詩はどこにあるか

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犬飼愛生「牛の子ではない」、高田太郎「河骨川」(「交野が原」69、2010年09月20日発行)

 犬飼愛生「牛の子ではない」の書き出しが強烈である。

牛の子ではないから
人間は人間のお乳で育ててほしいの
牛のような助産婦が そう言ったのだ

 これは犬飼が助産婦から聞いたことばをそのまま書いたのだと思う。「詩」を書こうとして(詩にしようとして)発せられたことばではないが、だからこそ、そこに詩がある。母乳で育ててほしい--といえばそれですむのだけれど、日常の会話でも、こんなふうにことばは逸脱していく。ほんとうに何かを言おうとすると、ことばは過剰になる。その過剰の瞬間に、ことばが詩になる。
 この助産婦の本心の過剰に、どんなふうに向き合えるか。それを超えて、どれだけ過剰なことばを書きつづけることができる。
 これは難しい。

雲ひとつない空が 真っ青な
月曜日だった
目も開かぬうちに
私の胸に乗せられた子
たったいま、この世に生まれた子が
ちう、と吸った
私ははじめて 自分の体内から
乳が湧くのを見た

 「見た」ということばに、犬飼の必死を感じるけれど、それでもまだ助産婦のことばに負けていると思う。過剰なことばになっていない。逸脱していない。

私の乳だけで ここまで育った
歯が生えた、髪も伸びた
よつんばいになった子の
手が もうすぐ
一歩でる

 助産婦のことばに対抗しきれないまま、こどもが成長している。ことばではなく、赤ん坊が「いま」を突き破っていく。これでは母子手帳の記録になってしまう。
 せっかく助産婦のことばを受け止めたのだから、そこから先へ過剰に逸脱していってほしいと思う。



 高田太郎「河骨川」は風景のスケッチだが、ことばの逸脱の仕方が自然で、スケッチの詩にとても似合っていると思う。

うつらうつらしていると
いつのまにか浮子の姿はなかった
燃えつきようとする落日が
川面を静まらせ
そこには河骨の花が小魚とふざけながら
黄色い蝶のように
ゆらゆらゆれて美しく舞い上がったりするが
その川底の深い土の中では
風化した白い人骨のような根が絡み合い
みだらな夜を待っているのを
だれも知らない

 「河骨」の花。「河骨」ということばのなかに「骨」があり、骨とは一般的に「死」の象徴である。そうしたごく普通の連想にしたがってことばを動かしているのだが、白い人骨という比喩をつかった瞬間から、「根」ではなく、「人骨」そのものがからみあう死後の夜、淫らな死が生きて動きはじめる。死が生きるというのは矛盾だが、矛盾だから、そこに詩があるのだ。
 淫らなセックス--そこで人間は死を体験する。死を体験することで、生きている、と感じる。矛盾はいつでも淫らなのだ。矛盾を淫らと定義するのは、高田の過剰な意識である。だから、それが詩なのだ。





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