岩佐なを「土塀」 | 詩はどこにあるか

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岩佐なを「土塀」(「現代詩手帖」2010年08月号)

 詩は意味・内容ではない。ことばである。ことばが何を呼吸するかである。岩佐の詩のことばは「いま」を呼吸しないところが、「いま」である。「いま」を呼吸しないのに、なぜ「いま」か。それは、「いま」のなかには「いま」ではないものがひそんでいるからである。あ、そうか、そういうことばがあったな、それは「いま」でも思い出すことができる、という形で浮かび上がってくる。「いま」はつかわない、けれども「いま」も思い出すことができるということば。そのなかに生きているリズムと音。それが岩佐の詩である。
 「土塀」は土塀にそって猫が歩いている詩である。内容・意味を簡単に紹介できるのは、内容・意味が詩とは無関係であるからだ。詩に関係する部分は、簡単には「流通言語」に載せることができない。

傾きながらも時代をつけて
東西に限りなくのびる
この土塀を右側に感じつつ
彼れ此れ何百年歩いていることか
徐々徐徐々々

 「じょじょじょじょじょじょ」は猫のおしっこの音である。漢字と送り文字が乱れた形で出てくるが、それはそのままおしっこの勢いの乱れである。1行を声に出して読んでみるとよくわかる。ここでは岩佐はことばのなかの音の変化を引き出している。そして、そういう音の変化、無意識に音を変化させながら何かをまねる、何かのなかにあるものを引き出す行為が詩であると告げているのである。

 どんなことばでもいい。何かをいう。そのとき、その何か、内容・意味以外のものを感じる瞬間がある。内容・意味から逸脱し、違うものを感じてしまう瞬間がある。その逸脱する感覚のなかに詩があるのだが、岩佐の逸脱は、最初に書いたように「いま」の中にある「いま」ではないもの、「いま」をささえる「過去」をよみがえらせることが多い。

土塀の中にはある単位ごとに
七生翁が棲んでいて
塀に沿って旅するものに
水をくれる

 「七生翁」は「猫は七回生まれ変わる、七つの命を持つ」ということばを思い出させる。そんなことばは「いま」ではテレビのクイズ番組のなかにしか出てこないかもしれないが、確かにまだ生きている。そして、それが「いま」生きているというとき、そのことばにつらなり、そのことばが生きていた時代のにおいがよみがえる。

菊花が描かれたどす黒い椀に
空色の芥子の花弁が浮いた冷水で
舌ふりみだして
ジャップジャップッと
呑むのである
まだまだ生きられる気がするぢゃろ。と
翁が言う

 墓場の椀にたまった水。それさえも命をつなぐ水になる。やっとたどりついた水を飲むと、「いま」よりはるか遠くから「まだまだ生きられる気がするぢゃろ」と声が聞こえる。その声は、自分の「肉体」のなかから聞こえるのである。「肉体のいま」は「肉体の過去」としっかりむすびついていて、いつでもそんなふうに浮かび上がってくる。

そのとおりなのだが肯かない
死ににくいトシヨリを
残念がらせてもつみではない
(所詮気がするだけアンタモアタシモ)
椀をかえして
まだ土塀を右にしながら
先に進む
……戻れば左が塀になる

 トシヨリとのやりとり、そのめんどうくささ、うっとうしさが、そのままリズムのなかにある。「肉体の嫌悪感、生理の嫌悪感」のようなものが、「いま」ここにあるものが「肉体」なのだ、「生理」なのだと教えてくれる。

 最後の1行がとてもいい。
 右にあるのものは逆から見れば左。それを決定するのは「肉体」である。「肉体」はかわらずに存在する。変な話だが、死んでも肉体は引き継がれる。その、死んだ肉体から引き継いだもの、死んでも死んでも死なないもの、ことばの音とリズムを岩佐は書いている。




響音遊戯爪物語[CD]―岩佐なを詩集「狐乃狸草子」(七月堂)より

七月堂

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