「草枕--五月」。
草枕旅のはじめは五月こそ
「草枕」は「旅」の枕詞。五月の旅か。いいなあ。
俳句は不思議だ。こういう何でもないような、つまりどこに工夫がしてあるのかよくわからない句が(あ、これは私にはわからないというだけのことであって、ほかの人にはわかるのかもしれないが)、すーっと胸にはいって落ち着くことがある。最初は読みとばすのだけれど、なぜか、その句へ引き返してしまう。
音がいいのかもしれない。音にむりがないのかもしれない。
夏の風邪枕親しむ二三日
「親しむ」ということばの使い方に、なるほどなあ、と思う。ずーっと寝ている。枕は常にそばにいる。それが「親しむ」ということ。
この回のエッセイでは、高橋は再び万葉集を引いている。
草枕旅行く夫(せ)なが丸寝(まるね)せば家(いえ)なるわれは紐解かず寝む
草枕旅の丸寝の紐絶えば吾(あ)が手と付けろこの針(はる)持し
高橋は、これに口語訳をつけている。「草を結んで枕とする旅をつづけるいとしい夫のあんたが着たまま寝るなら、家にいる吾(あたい)も紐を解かずに丸寝しようよ」「草を結んで枕とする旅をする旅の途中、着たまま寝る紐が切れたら、吾の手だと思ってこの針で縫いつけておくれなね」。
このふたりは離れている。風邪をひいて寝ている「わたし」と枕の関係が「親しむ」という関係だとすると、その対極にある。けれど、ことばがこんなふうに行き交うとき、そこに「親しむ」--親しんできた関係がくっきりと浮かび上がり、そのなかで、ことばではなく、「肉体」が寄り添う。「親しむ」という関係、そばにいるという関係をつづけてきた「肉体」だけが、こういうことばを引き寄せることができる。発することができる。
風邪(病気)のときの枕と人間の関係、それと男女の関係は、まったくないのだけれど、「親しむ」ということばに誘われて、私は、何かがつながっていると感じてしまうのだ。
「親しむ」というのは懇ろになるということであり、安心して身をまかせるということでもある。そこには「肉体」がある。「肉体」抜きにして「親しむ」はない。
旅は、肉体と肉体を遠ざける。距離をつくりだす。その距離をことばが埋める。ことばが距離を越えて結びつく。「肉体」よりも強く。
そして、この距離を「空間」ではなく「時間」としてとらえなおすこともできるかもしれない。
高橋は、「いま」と「万葉」の時代の「時間」の距離、隔たりを、ことばで埋める。高橋がことばを動かすとき、「いま」と「万葉」が「親しい」関係になる。「いま」が「万葉」に「親しむ」のか、「万葉」が「いま」に「親しむ」のか。区別はできない。時を越えて、ことばの「肉体」に触れ(ことばの「肉体」と懇ろになり)、そのとき、互いの「肉体」が新しくなる。いままで気がつかなかった「肉体」の奥の力を感じる。「肉体」の奥から力が湧いてくるのを感じる。
高橋は、万葉に触れながら、ことばの新しい力を感じているのだと思う。
*
反句、
草枕丸寝忘るな風薫る
あ、書き忘れていた。「親しむ」と同時にそこに書かれていた「丸寝」ということば。服を着たまま寝る--自分で自分の体を抱き抱えるようにして丸くなって寝る。その姿。その姿をあらわすことば。
草を枕として着たまま寝る旅の原始的な姿を残した表現で、当時の平城京の官人貴族らには疾うに失われた習慣が、東国からの防人らには残っていたわけだ。
高橋は、そんなふうに「丸寝」について書いているが、残っているのは「習慣」だけではない。「ことば」が残っている。人間はいつでもなにかをあらわすのにことばをつかう。そのことばがあるかぎり、それが指し示す人間の行為がある。こころがある。
万葉に残っていることばを引き継ぐ、俳句に(あるいはエッセイに)取り入れ、動かすのは、その残っているこころに新しいいのちを注ぐことでもある。あるいは、残っているものから、注がれることでもある。
残っているものを見つけ出すとき、それは、恋のように、見つけ出したつもりが見つけ出され、新しいなにかを注がれることなのかもしれない。
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