高橋睦郎『百枕』(8) | 詩はどこにあるか

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高橋睦郎『百枕』(8)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 高橋睦郎『百枕』を読みはじめたとき、そしてその感想を書きはじめたとき、「日本語」について何かまとまったことが書けるかなあ。高橋がどんなふうに日本語を耕しているか、そのことについて書けるかなあ、とぼんやり考えていた。
 その思いは、いまでもときどきよみがえってくるけれど、そんなことはどうでもいいのかもしれない。ただ楽しければいい。そこに書かれていることばが楽しければいい。楽しいことだけを、「結論」をめざさずに、ただ書き流してみたい。

 「立春枕--二月」。「立春枕」ということばがあるかどうか、知らない。「初枕」もあるかどうか、私は知らない。あってもいいじゃないか、と思うだけである。

枕にも衾にも春立ちにけり

 これは、じっくり考えはじめると、変な句である。枕にも衾にも立春がやってきた。立春は、別に、枕や衾にやってくるものではないだろう。暦によって「立春」が刻まれるだけだろう--などというと、この屁理屈が面倒になる。
 「初枕」と書いた瞬間に新しい年のめでたい気分があふれてくるが、同じように「立春」(春立つ)と書けば、そこに明るい何かがあらわれてくる。
 「春立ちにけり」が、ほんとうに「春」そのものが「枕」や「衾」の上に立ち上がるように見えてくる。「けり」という強いことばの力のせいかもしれない。
 「切れ字」というのは、いいもんだなあ、と思う。
 世界を有無を言わさず断ち切る感じがする。そのことばの先には何もない。絶対的な空白がある。その絶対的空白と真っ正面から存在が向き合っている。そういう存在形式の力、存在形式を支える力が、「春」という抽象的(?)なものを、まるではっきりした「もの」のように感じさせる。「春」という「もの」が、立ち上がっているように見えてくる。
 枕にも衾にも春が来た--と散文的に書くと、「けり」の持っている絶対的な空白と立ち向かう力が消えてしまう。

豆打たれ鬼は何処に枕得し

 「立春」といえば、「節分」。「節分」といえば「鬼」。「あいさつ」の発句を踏まえながら動いていく高橋のことば。ひとり連歌の楽しい展開。
 そのなかでも、私は、この句が好きだ。この展開が好きだ。
 「鬼は外、福は内」ということばとともに追い出された(でも、ほんとうに追い出された? ほんとうは内に入ろうとして拒まれた?)鬼は、どこで寝るんだろう。どこでやすらぎを得るんだろう。その「寝る」「やすらぎ」が「枕」ということばになってやってくる。「枕」という小さな存在、その見知った形が、かなしみのように見える。

 俳句は抽象を具体的な「もの」のなかに凝縮させる。その瞬間が、詩、ということか。


 反句は、

春・枕・鬼の三題噺せよ

 「三題噺」がおもしろい。「噺」というのは簡単に言えばでっちあげ。こじつけ。こじつけなのだけれど--そのこじつけのなかには、ことばの連絡がある。むりやりこしらえた連絡がある。その「むりやり」と「こしらえる」という動きのなかで、ことばにならないものが「もの」のように凝縮する。
 あ、それは、「けり」について書いたときの絶対的空白と「もの」の関係に似ているかもしれない。
 「噺」の虚構、三つの噺をむりやりつないで、そこに関係をさらに捏造するとき、その捏造された運動は、絶対的な空白と向き合っている。

 詩というのは、絶対的な空白と向き合う力、絶対的な空白に抗い生成する力のことかもしれない。





語らざる者をして語らしめよ
高橋 睦郎
思潮社

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