荒川洋治「ゴンチャロフ著『平凡物語 上・下』評」 | 詩はどこにあるか

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荒川洋治「ゴンチャロフ著『平凡物語 上・下』評」(毎日新聞、2010年08月01日朝刊)

 文章は、たとえば「起承転結」のように書くものである、という考え方がある。「結論」がないといけないらしい。文章だけではなく、あれこれ何かを話していると、「それで、結論は?」とうながされることがある。ことばは「結論」へたどりつけないといけないらしい。
 私も長い間そんなふうに考えていたが、最近は考え方が違ってきて、「結論」はどうでもいいなあ、と思うようになった。考えられるところまで考える(ことばをうごかしていく)。それだけでいいように思うようになった。「結論」にはきっと「むり」がある。「結論」にしなければならない、という意識によってゆがめられてしまったものがある、というように考えるようになった。
 それで、というのも奇妙かもしれないが。
 他人の文章(詩)を読むときも、筆者がいいたい「結論」にはあまり関心がなくなった。どんな「結論」であれ、そこに書かれている「結論」はその人のものであって、私の現実とはどこかしら違っているから、それは私の「結論」にはなりえない--そう思うようになった。そして、「結論」とは関係ないわけではないだろうが、「結論」として書かれている部分とは違う部分に関心がでてきた。「結論」ではない部分が、とてもおもしろいと感じるようになってきた。

 で。

 荒川洋治「ゴンチャロフ著『平凡物語 上・下』評」の、途中(「起承転結」の「転」くらいの位置の部分)に、とてもこころを動かされた。

ぼくの印象にのこったのは二人。ひとりは、青年が友人と釣りをしているとき、父親らしい老人といっしょに来て、そばに立った娘だ。三日目も来る。そのあとも。あまりものをいわない彼女と機械的な視線をおくる青年。この光景は特に意味もなく、うすっぺらなのに印象的だ。ああ、このようなことはよくあるのに、ゴンチャロフの小説でしか会えないことだと、ぼくは思うのだ。

 ああ、いいなあ。いい文章だなあ、と思う。荒川洋治にしか書けない文章だと思う。どこかで体験したようなこと、体験したけれど、ことばにしようとはしなかった何気ないこと。よくあること。よくあるけれど、だれも書かなかった。つまり、ゴンチャロフの小説のなかにしかない、ことば。
 それを指摘する荒川のことばも、それにいくらか似ている。
 ゴンチャロフの小説以外にも、たぶん、ふと、これは平凡なことなのだけれど、だれも書いてこなかったことだなあ。このひとのことばに出合わなかったら、それがことばになるということすら気がつかなかったことだなあ、という部分はあると思う。
 荒川は、今回、たまたまゴンチャロフを取り上げて、そう書いているが、荒川の評価(批評)はいつでもそうしたものだと思う。
 そして、それはそのまま荒川の文章の特徴でもあると思う。
 荒川がほめているような文章は、荒川の文章に出合わないかぎり、そこに存在していることすら気がつかない。

 荒川は、書評のなかでもっとほかのことも書いていた。「結論」も書いていたはずだ。でも、私はもう思い出せない。思い出せるのは、

このようなことはよくあるのに、ゴンチャロフの小説でしか会えない

 という文だけである。それは繰り返しになるが、「このようなことはよくあるのに、荒川洋治のことばでしか会えない」と私は思うのだ。


忘れられる過去
荒川 洋治
みすず書房

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