高谷和幸『ヴェジタブル・パーティー』は、不思議な詩集である。たとえば「肩に触れた指を仕舞う所がなく」という魅力的なタイトルの詩。
会談が途切れて畳む足もないのです。私たちは四角い天地に憧れて時代(あれは、誰かの息吹きであったと思う)をしばしば遮るように。あなたの接触する点(暖炉の蓋や作業机のひかりのへりあたり)にこれからも再生するでしょう。
詩は「意味」ではない--ということは知っているけれど、というか、私自身、「詩は意味ではない」と何度も書くけれど、そのとき私は「意味」を突き破っていくことばの暴走を楽しんでいる。ことばの暴走に驚きながら、その恐怖を楽しんでいる。ジェットコーススター、絶叫マシーンのように。「わけのわからんことを書くな」と怒りながら、「おいおい、どこまででたらめを書くことができるのだ」と喜んでいる。
高谷和幸のことばは、そういう暴走、スピードとは無縁である。
ひとつの文と、次の文の「接触点」が見えない。飛躍の、「分離点」が見えない。何かがつながっていて、何かが離れている、ということがわかるとき(感じられるとき)、そこに暴走という感じが生まれてくるのだけれど、高谷のことばには、それがない。
そして、文と文との間に(句点「。」で区切られた文と文との間に)、「接触点」と「「分離点」がないかわりに、ひとつの文のなかに「分離点」と「接触点」がある。
私たちは四角い天地に憧れて時代(あれは、誰かの息吹きであったと思う)をしばしば遮るように。
括弧をつかい、挿入されたことば--それは、直前の「時代」ということばに接触しながら、同時にそこから離れていく。「離れていく」というのは挿入という概念からすると、とても不思議な気がするが、高谷にとっては、挿入されたことばは文体に対する点滴(カンフル剤)のように、挿入を受け入れた「からだ(文体)」を活性化させるというよりも、何か、鎮静させ、停滞させる。挿入されたもの、挿入したものが一体にならずに、接触しながら離れている。
(あれは、誰かの息吹きであったと思う)は、「私たちは四角い天地に憧れて時代をしばしば遮るように。」という「文」の「からだ」を刺激しない。ただ、共存している。「からだ」と「衣服」の関係よりも無関係に共存している。
(暖炉の蓋や作業机のひかりのへりあたり)と「あなたの接触する点にこれからも再生するでしょう。」も同じである。「ひかりのへりあたり」ということばは魅力的だが、それは「再生」とは単に「共存」しているだけで、「呼応」していない。無関係である。
「ひかりのへりあたり」はむしろ前の文の「誰かの息吹き」と呼応している。
「文」に挿入された括弧内のことばは、他の括弧内のことばと呼応している。「文」から「分離」し、分離したものどおしが呼び合い接触しようとしている。
詩のなかから、括弧内のことばだけを引用してならべてみる。
(あれは、誰かの息吹きであったと思う)
(暖炉の蓋や作業机のひかりのへりあたり)
(プロポージション物質を分泌するそれら四つのわたしを射抜く細部)
(眼の無垢であるかのような)
(あの瘴気に手懐いた動き)
ここには、「文(体)」を離れたことば、「文」の「意味」から「離れた」ことばの呼応がある。
「文(体)」を離れたことばだけで、別の「文体」をつくれば、そこにひとつの詩が誕生する。ただし、それはすでに「現代詩」がやっていることである。同じことをやりたくないので、高谷は、「文(体)」を離れたことばを「文(体)」のなかに挿入し、「文(内)」に閉じ込め、「文(内)」と「文(内)」の、(内)同士を呼応させるのである。(内)を「意味」ではなく、「こころ」と置き換えることができるかもしれない。
「文体」のなかに「からだ」と接触しながらも、離れて存在する(閉じ込められながらも、閉じ込められているということを意識することで、そこから離れたいと思っている)「内心」同士が、呼び掛け合っているのである。
こうした動きに、もうひとつ、別のことばの運動が加わる。
ひかりが差し込んだような瞳であなたが「丈夫な空洞が羨ましい」(眼の無垢であるかのような)といわれたことを思い出します。あのひかり(あの瘴気に手懐いた動き)。「肩に触れた指を仕舞う所がなく」。
カギ括弧によることば。これは、あきらかに「他者」のことばである。丸括弧のことばは「わたし(たち)」の「内心」であるが、カギ括弧のことばは「他者」の「内心」がことばそのものとして、「からだ(肉体)」の外へ出てしまった「こころ」(外心--と区別して書いておこう)である。
「内心」と「外心」が触れ合う--そういう瞬間を高谷は書こうとしているのかもしれない。そのとき、「肉体」というからだは、「わたし(たち)の肉体」と「他者の肉体」は分離している。
図式化すると
「わたし(たち)の肉体」-「内心」-「外心」-「他者の肉体」
という関係になる。それは
「わたし(たち)の文(体)」-「内心」-「外心」-「他者の文(体)」
という関係にもなる。なるのだが、この詩では、その「他者の文(体)」というものが、ない。
「外心」=「他者の文(体)」
という形で、「肉体」の外に飛び出してしまっている。「肉体」の不在。
思うに、この詩は、死者との対話、なのである。
詩のつづき。
「肩に触れた指を仕舞う所がなく」。そうでしょうとも。あなたの横たわる地面の底を流れていた水にようやくなれたようで、わたしたちは何万年も不在です。
「あなたの(他者の)肉体」と「わたし(たち)の肉体」の接触のなさ、死者と生者の違い--それは関係が「不在」である。
そんなふうに読んできて、高谷はおもしろいことをやっているんだなあと感じながらも、ひとつ疑問が残る。冒頭、
会談が途切れて畳む足もないのです。
私は「会談」という、いきなり止まってしまうことばにつまずく。だれかと話していて、ことばが途切れる。そのときの空白を「畳む足もない」と「肉体」に取り込んでいくことばの運動は魅力的だが、「会談」って何? 死者をとりまく生者である「わたし(たち)」のことばのやりとりなのかもしれないが、この「足」という「肉体」の内部にある「内心」がまったく見えない。
最後に「そうでしょうとも。」という突然の肯定で出てくる「内心」のことばの噴出の、不思議な汚さ--それに、私はまごついてしまう。
「内心」は「肉体」という外部に隠されているがゆえに、見えても、見えないといえるものである。そこに美しさがある。けれど、それが「肉体」から出てしまうと、とたんに汚れてしまう。
なぜ、最初から最後まで「内心」は「内心」のまま、呼応し合えないのか--それがわからない。高谷は「肉体」と「内心」、あるいは「文体」と「内心」の関係をどう考えているのだろうか。
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