黄仁淑(ファン・インスク)「空の花」は「雪」を描写している。
先に落ちていく雪片に阻まれて
後の雪片たちがふわふわと浮かぶ
空までの遥かな隊列です
向こうの深い天空で
似通った星たちが吸い込まれ
一緒に零れ落ちるかも知れません
私も吸い込まれて
どこかに零れ落ちてしまうようです
雪は空から降ってくる。多すぎて、落ち切れなくて、浮かんでいる。こんなに多くの雪が落ちてくるのは、空の向こうの星が一緒に落ちてくるのだ、というのは美しいイメージだ。
その落ちてくるものを書きながら、逆に、私が空に吸い込まれていくように感じる。一個の「星」として空に吸い込まれて、それから遠い宇宙の星とは逆に、どこかの星に零れ落ちる。
あ、美しい。
この部分はほんとうに美しいと思う。
私は雪国の生まれなので、雪が降るのは小さいころから見慣れている。雪はたしかに降ってくるものなのだが、それを見上げていると雪が降ってくるのではなく、自分が空へのぼっていく感じがする。吸い込まれる感じがする。
そして、あ、このまま高く高くのぼっていってしまったら、どうなるのだろう。空を超えて、どこへ行くのだろう。
たぶん、黄仁淑もそう感じたのだろう。そして、そのあと、きっと宇宙を超えて、雪の降る別の星に、雪となって降るのだ、と感じたのだと思う。
私は、そこまでは思ったことがない。
ところが、黄仁淑は私の幼い空想のはるか向こうまで飛んで行く。そして、自分の「肉体」の運動とは逆のことがどこかで起きている可能性があるとも考える。想像する。
どこか遠い宇宙の星にも雪が降ってる。そして、それを見上げる人ではなく星そのものが、その降ってくる雪を逆に駆け上って(降ってくる雪に吸い込まれて)、空を超え、いま、黄仁淑のいる土地に降って来ている。
このとき、黄仁淑は空で起きている下降(降る)と上昇(吸い込まれる)を連続したものとしてとらえている。その運動が広がっているところが空を超え、宇宙になる。黄仁淑は空を、雪を描写しているのではなく、「宇宙」そのものになっているのだ。「宇宙」のひろがりが黄仁淑の想像力なのだ。。
ほーっと、息が漏れる。
黄仁淑は私の知らないことを書いている。知らないことなのに、それが不思議と「なつかしく」も感じられる。黄仁淑の書いていることばのように、そのまま、雪を見上げて宇宙を超えて、知らない星に零れ落ちてみたい、という夢を見てしまう。
あ、はやく雪の季節にならないかなあ、とも思う。
この詩の最後は、「宇宙」そのもののひろがりとは逆の方向(?)に収斂していくが、それはそれでなぜかとてもなつかしくもあるし、美しい。
自分の部屋に入ってドアを閉めると
急に静かになります
ポケットの中に雪がいっぱい入っています。
黄仁淑は単なる「空想」を描いているのではない。黄仁淑の「宇宙」はいつでも、手に触れることのできる「現実」なのだ。
